2007年02月28日

北海道遺産シリーズ

「五稜郭と箱館戦争の遺構」(函館市など)
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「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/

箱館戦争は明治元年10月20日の旧幕府脱走軍の侵略に始まり、翌2年春の新政府軍の反撃により、5月18日の五稜郭開城で終わりました。この戦いは道南一帯に及び、五稜郭・四稜郭(函館市)をはじめとして、旗艦開陽丸が座礁、沈没した鴎島沖(江差町)など、その遺跡、遺構が随所に見られます。
また、五稜郭跡の堀や土塁を利用した市民参加の演劇「市民創作函館野外劇」が催されるなど、各地で箱館戦争の歴史をテーマにしたイベントも開催されています。今後は道南地域が一帯となった広域的な取り組みも期待されます。

「函館山と砲台跡」(函館市)
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津軽海峡を一望できる函館山は、その軍事的価値が評価され、明治中期に要塞化が進められてきました。大規模な旧状を残す軍事土木遺産は全国的にも例が少ない中、現在でも多数のレンガ壁・コンクリート洞窟掩蔽壕・大砲座が残る最大級の戦時遺構です。太平洋戦争の終戦まで立ち入りが制限されたことから、貴重な動植物の宝庫ともなっており、自然に触れることができる散策コースが市民に親しまれています。函館市では昭和50年代より、「函館山緑地整備計画」を策定し、函館山の整備を進めてきました。現在は市民参加型の「函館市緑のパートナー会議」の提言をふまえて策定された第四次整備計画を推進中です。自然保護と観光振興の調和をテーマに、着実な整備が進められています。

■函館市のランドマーク
年間約530万人もの観光客が訪れる函館市。
市のランドマークである函館山は、標高334メートル、海中から噴火した火山で、牛が寝ているような優雅でなだらかな姿から”臥牛山”とも呼ばれており、ナポリ、香港と並ぶ世界三大夜景と称される函館山からの夜景は多くの人々を魅了しています。
しかしこの山の価値は、華やかな夜景だけではありません。
津軽海峡を一望できる函館山には、その軍事的価値が評価され、南下政策をとるロシア防備のため、当時の明治政府によって、1898(明治31)年からフランス陸軍軍事顧問団の指導のもと、4年の歳月を費やして、東京以北唯一の巨大要塞が構築されました。
砲台は、山頂部に連なる御殿山第一・第二・千畳敷第一砲台で、備砲は28センチ、弾砲16門でした。
これにより、軍事機密を守るために、太平洋戦争後の1946年までに半世紀にわたり山への立ち入りが禁止されていましたが、このことが貴重な自然環境が荒らされずに保全され、現在では約600種類の植物が見られます。また、海峡に突き出た形をしているため、海岸沿いを移動する渡り鳥にとって貴重な目印となっていると同時に、休息地として年間150種あまりの野鳥が観測され、「自然の宝庫」といわれる、今の函館山を作り上げる要因となったのです。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺産 
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2007年02月27日

北海道遺産シリーズ

「上ノ国の中世の館(たて)」(上ノ国町)
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「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/

上ノ国は、津軽海峡に面した道南の東側を「下ノ国」といったことに対する日本海側の呼び名です。
エゾヒノキ(ヒノキアスナロ)の深い森を抱く檜山山地から流れ出る天ノ川は河口付近で潟となり、投錨を必要としない天然の良港となります。これが日本海交易ルートの拠点として上ノ国町が繁栄した最大の要因でした。その上ノ国町に所在する「花沢館」「州崎館」「勝山館」の三館が北海道遺産に指定された「上ノ国の中世の館」です。館とは、中世この地方に多く造られた山城のことです。
このうち最も規模の大きい勝山館跡は、昭和54年から発掘調査が始まり、現在も継続しています。現地に立つと中世へのロマンを掻き立てられます。

■上ノ国町にとっての「中世の館」とは
上ノ国町では、松前藩の祖・武田信廣が15世紀後半に築城した山城として知られている国指定史跡勝山館跡や夷王山墳墓群などの発掘調査を昭和54年から開始し、館跡からは空壕、屋敷跡、食器など謎の多い北海道の中世史のミッシングリンクを埋める多くの資料が発掘されました。
また、墳墓群からは、アイヌ人骨も発見され、中世における和人とアイヌ人の共生の証として注目されています。
勝山館跡の特徴は「北」の文化と「中」の文化が海峡を挟んで接触・交流して築かれた「北の中世」の特徴を表現しているところにあり、館跡とその直下の町場との関係も含め、「面白い謎に満ちた城」との評価で関心も高く、北方中世考古学研究の先駆的役割を担っています。

「福山(松前)城と寺町」(松前町)
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江戸時代の日本で最後に築城された城郭です。天守閣は道民からの浄財をもとに再建され、近年は文化庁等の補助を受けて、石垣・城門の復元工事も進んでいます。城の北側には道内唯一の近代的な寺町があり、松前家の菩提寺・墓所なども含めて、現在もなお、往時の雰囲気を体験することができます。
松前町の歴史を知ることは、開拓以前の本道の歴史を理解する上で重要であり、お城や寺町は道民全体の宝物であるという認識のもと、地域においては、関係者が一体となり、年間を通じた観光客の誘致などに向け、より発信力のある活動を展開しています。

■松前公園への思い
北海道で最も早く桜が見頃となり、福山(松前)城と背景に集中的に配置された5つの寺がある寺町が江戸時代の雰囲気を醸し出す松前公園。
松前家の初代藩主、松前慶広がこの地に福山館を築いたのは江戸幕府が開かれて間もない1606(慶長11)年ですが、その後、外国捕鯨船の来航やロシアの南下政策など外国船の出没に備えた北辺警備を目的として、5年の歳月をかけて1854(安政元)年に完成したのが福山(松前)城で、道内唯一、わが国最後の日本旧式城郭です。
また、松前公園は250種1万本を有する「さくらの里」として全国に知られています。
松尾芭蕉の句「一里はみな花守の子孫かや」のとおり、松前がさくらの名所になったのは、この句にあるような「花守」の存在があったからです。大正時代以降、接ぎ木で桜の増殖に努めた鎌倉兼助氏、さらに昭和28年から松前町の小学校教論として全国からさくらを収集し、品種改良によって松前独自のさくらを生み、現在の礎を築いた浅利正俊氏。そしてさくらを守り育てた多くの子供たちや町民の努力が「さくらの里」を育てたのです。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 







posted by 井上 昭三 at 13:58| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月24日

北海道遺産シリーズ

「内浦湾沿岸の縄文文化遺跡群」(函館市・伊達市など)
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「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/

古代より南茅部地区(旧南茅部町)周辺は、資源豊かな海と山に囲まれ、文化を発展させるうえで絶好の自然環境に恵まれていました。そのため、この地域には縄文時代早期から晩期にかけておよそ7000年もの間、縄文文化が栄えました。南茅部地区には集落規模としては国内最大級の大船遺跡など89ヶ所の遺跡があり、出土品は精巧な漆塗り製品など400万点を超えます。
また、地元では、遺跡をまちづくりに生かそうと「縄文遺跡の里」をPRしています。
発掘に携わる主婦や商店主、会社員らが「北の縄文CULB」を結成し、普及活動や研究、遺跡周辺の清掃などに取り組んできます。

「姥神大神宮渡御祭と江差追分」(江差町)
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「エンヤ、エンヤ」の掛け声と共に、若者たちが13台の山車(やま)を引っ張り、笛や太鼓で囃子(はやし)をかき鳴らす。
江差の姥神大神宮渡御祭は毎年8月9日〜11日に行われます。360年近くの歴史を持ち、北海道で最古の祭りと言われています。祭りの期間、町内の旅館・ホテルは1年前から予約で埋まり、人口約1万1千人の江差町に、6万人とも7万人ともいわれる江差出身者が帰省し、祭りに命を燃やします。
祭りが終わった次の日には、人々はもう来年の祭りの日が早くくることを待ち望みます。祭りの数日後、祭りのホームページにはこう書かれています。「姥神大神宮渡御祭まで360日」。

■江差町民にとっての「姥神大神宮渡御祭」
その起源はおよそ360年前にもさかのぼる、蝦夷地最古の祭りの一つとして知られた「姥神大神宮渡御祭」。その年のニシン漁を終え、蝦夷地きっての景気にわきかえる夏の江差で、豊漁に感謝を込めてにぎにぎしく行われるお祭りでした。
江差では御輿に供奉する曳き山を「ヤマ」と呼び、屋台に高く青木(トドマツ)を立てて、神の依代とすることを「ヤマを立てる」と言い表します。宝暦年間(1751〜64年)に作られた神功山をはじめとする、武者人形、能楽人形、文楽人形、歌舞伎人形などを配した豪華な13台のヤマが、吹き流しや錦の御旗をひるがえし、流暢な祇園囃子の調べにのって、町内を練り歩くさまは、絢欄な絵巻の世界を眺めるよう。
はるか遠い江差のニシン景気を現代に伝える夏の大祭です。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺産 

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2007年02月23日

北海道遺産シリーズ

「昭和新山国際雪合戦大会」(壮瞥町)022.jpg
「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/
北海道において、雪のない冬の暮らしを考えることはできません。それは長く、苦難の歴史でもありました。そんな中でも、子供たちは学校への行き帰り、雪をかけ合い、雪球を投げあい戯れたものです。
無邪気な子供の遊びを、大人が真剣に競う冬のスポーツとして確立したことは、雪国・北海道にふさわしい新しい文化であると評価できます。
ルール・用具の開発から、資金集め、企画運営まで、地域住民が主体となって行う実行力、15年の大会の歴史の中で40カ国以上の人々が参加したという国際性は、次世代に引き継ぐ新しい宝物を生み出したモデルとして、各地に推奨できるでしょう。近い将来、北海道生まれのオリンピック種目に昇格するのではとの期待も大きくなってます。

■「雪合戦」活動開始の背景
「スポーツ雪合戦発祥の地」である壮瞥町は支笏洞爺国立公園内にあり、特別天然記念物の昭和新山、洞爺湖、有珠山を抱える道内屈指の観光地ですが、以前は冬季間は人もまばらで、12月から3月までの観光客の入り込みはほとんど皆無状態でした。「なんとか冬にも観光客に来ていただき、地域経済を活性化できないだろうか?」これが当町の大きな課題でした。
 
そこで、「地域活性化の核となる冬のイベントを創ろう!」と昭和62年8月、町内の若者グループが立ち上がり、アイディア検討会を結成しました。しかしたくさんのアイディアが出されたものの、どれも既存のイベントばかりで決定打となるものが見つかりませんでした。そんな中、ヒントを与えてくれたのは、旧正月に来遊する東南アジアからの旅行者たちでした。昭和新山にやってきた彼らは、生まれて初めて見る雪に感動し、その感触を確かめ、次にとる行動は、無邪気な子供のように雪をかけ合い、丸めて投げ合うことでした。その喜々とした姿をみて、「雪国に住む私たちは、雪の神秘さ、雪遊びの楽しさを忘れていたのだ」と気づき、新雪、利雪の観点から雪の価値を見出すことを考えたのです。
そしてアイディア検討会では昔誰もが遊んだ雪合戦の楽しさを現代風に再生させることを決定し、ここにスポーツ雪合戦が産声をあげたのでした。
 
しかし、競技は決まったものの、すぐに「雪合戦をどのようにスポーツとして作り上げていくか?」という壁にぶつかりました。そこで、既存のスポーツのルールを研究し、そこからヒントをもらいながら翌63年6月、ルール原案を作成。その後も研究を重ね、同年12月、ついに世界初のスポーツ雪合戦のルールが完成しました。 
またルール作りと並行して、用具の開発も進められました。頭や顔を防護するヘルメットは、スポーツ店兼靴屋の技術を活かし、オリジナルのものを開発。1試合に540個使用する雪球を1度に効率よく作るため、町内農家の人脈により、近隣町村の農機具メーカーが雪球製造器を開発、製作しました。型枠を組んで作るシェルター・シャトー(雪の壁)の作り方は、町内の大工さんが伝授してくれました。このように手探り状態のまま準備を続け、ついに平成元年2月、参加70チームを迎え、記念すべき第1回大会が開催されたのです。

「登別温泉地獄谷」(登別市)
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登別市は、わが国の風景を代表するに足りる傑出した自然の風景地として支笏洞爺国立公園に指定され、豊富な湯量と多種の泉質を誇る登別温泉と、山間の静かな国民保養温泉地であるカルルス温泉を中心に、地獄谷・大湯沼などの自然景観に加え、三つのテーマパークが立地するなど、北海道を代表する観光地として発展を続けてきました。
その中においても最大の泉源地「地獄谷」は、約1万年前笠山という活火山が噴火した時にできた爆裂火口跡です。この地獄谷や周辺から湧出する温泉は、温泉街のホテルや旅館に給油されています。地獄谷の周辺には様々な自然豊かな景観が残されており、後世に残すべき貴重な財産として、これからの自然環境の生い立ちや科学的な解説を通して、観光客や市民を対象にホスピタリティ豊かな地域住民がボランティア活動を行ってきます。

■地獄谷と周辺の自然景観
登別温泉地獄谷は、約1万年前の爆裂火口跡です。長径450m、面積約11ヘクタールの谷底には数多くの湧出口や噴気孔が点在するとともに、大地獄を中心に15の地獄があり、その凄さを物語っています。
ここから硫黄泉、明ばん泉、鉄泉など成分が異なる湯が毎分3,000リットルも湧き出しており、北海道を代表する温泉地最大の源泉として、温泉街のホテルや旅館に給油されています。
地獄谷の周辺には、太古から続く大自然の営みを今に伝える様々な自然スポットが残されています。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺産


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2007年02月20日

北海道遺産シリーズ

「スキーとニセコ連峰」(ニセコ地域)020.jpg
「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/
ニセコ連峰は、倶知安町側のニセコアンヌプリから日本海の岩内町側にある雷電岳(1,211m)に至る全長約25kmに及び、1,000m級の山々が連なります。積丹、小樽方面を含め、山と水の海岸の変化に富んだ景観から、ニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定されています。その主峰・ニセコアンヌプリには3ヶ所のスキー場があり、年間約70万人のスキーヤー・スノーボーダーが訪れます。中でも道内有数の規模を誇るニセコ・グランヒラフスキー場は全国屈指の人気スキー場で、アンヌプリ全体の年間スキー客の約7割を占めます。雄大な自然と上質のパウダースノーから、スキーヤー・スノーボーダーからは「スキーの聖地」と言われる憧れの地・ニセコ連峰。海外からも注目され始め、世界に発信する「ニセコ」へと生まれ変わろうとし

「北限のブナ林」(黒松内町)
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渡島半島の付け根、日本海と太平洋を国内最短距離で結ぶ、黒松内低地帯を境に、南は鹿児島県から続くブナの森が、突然連続性を失います。
最終氷河期に一度北海道から姿を消し、その後、気候の温暖化とともに少しずつ北進してきたブナは、ここ黒松内町を自生北限の境としています。
気候による限界説、現在も北進中だとする説など、多くの研究者が北限の謎の答えを出そうと、諸説を唱えていますが未だにはっきりとしません。
ブナの森は研究者に多くの謎をかけながら、ただ静かに脈々と命をつなぎ続けています。
ただ、これだけははっきりしています。この森は多くの人を魅了して止みません。ブナの美しさに見入られた研究者や地元の住民が、戦中戦後二度の伐採の危機を阻止し、現在では町のシンボルとして多くの人々に親しまれています。
■ぶなの原生林を残留せるは奇蹟というべし
黒松内町では今でこそ山間にたたずむ農村ですが、まだ、日本列島の形が現在のように揃わない太古の昔、町の静かな海の底に眠っていました。北海道自体いくつかの島に分断し、それが気の遠くなるような長い歳月を経て一つの北海道となったとき、その繋ぎ目のひとつとしてできたのが黒松内低地帯だと言われています。
黒松内低地帯は渡島半島の付け根という地理的特性から、日本海と太平洋を最短距離で結ぶほか、春から夏にかけての南風が噴火湾で発生する濃霧を運び、冬は逆に日本海からの北風が大量の雪をもたらし、年間を通して比較的湿度の高い地域にあります。
そんなエリアにある「北限のブナ林」は、大きく3つあります。
手付かずの原生林「歌才ブナ林」、一度伐採され、自然の力で再生した「添別ブナ林」、恒久的な保存と学術的研究を目的とした北海道の保護林「白井川ブナ林」。
特に「歌才ブナ林」は北限という限界の地に厳正の姿のまま純林状態で自生していることが、学術的に評価され、昭和3年、国の天然記念物に指定されています。
しかし、時代に翻弄され、存続が危ぶまれる事件がおこりました。
太平洋戦争末期の昭和19年頃、木製戦闘機のプロペラ材として当時の日本軍がブナの伐採を計画したのです。さらに、昭和29年にも当時村の赤字穴埋めのために、天然記念物の指定を解除して払い下げをする運動を行うということがありました。しかし、学者や熱心な住民の運動で危うく難を逃れたというエピソードがあります。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺産 









posted by 井上 昭三 at 10:54| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月19日

北海道遺産シリーズ

「ニッカウヰスキー余市蒸留所」(余市町)
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「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/
ニッカウヰスキー余市蒸留所は、創業者である竹鶴政孝の不断の努力と夫人リタの献身的な愛により、昭和9年にその前前身である大日本果汁株式会社として設立されて以来70年余、日本におけるウイスキー造りのパイオニアとして、余市町の発展とともにその歴史を刻んできました。
また、政孝の夫人リタの名にちなんで名づけられた、国道229号のJR余市駅〜余市町役場間約1.3kmの「リタロード」。ここには余市蒸留所を中心として、余市消防署や余市図書館、余市橋など公共建造物のほか、沿線住民の協力のもと、スコットランドのイメージを基調とした建物が多く並んでおり、住民と行政の協働による魅力あるまち並み景観づくりが進められています。

■ニッカウヰスキーの歴史と余市のつながり
日本でウイスキー造りを手がけた、ウイスキー造りのパイオニア、竹鶴政孝が余市を製造の拠点に決めたのは、余市の気候風土がウイスキーの本場英国スコットランドと大変似ていることが第一の理由でした。
また、余市はりんごの産地で、ウイスキーの原酒を寝かせて商品になるまでの期間、会社の経営を軌道に乗せるためには、りんごを使った商品作りが欠かせないものでありました。
昭和9年に工場建設にとりかかり、現在の旧事務所(余市町指定文化財)からのスタートとなりました。
設立当時の社名は「大日本果汁株式会社」で、まさにりんごを元に商品を作る会社であり、その傍らでウイスキーの原酒を製造していました。
昭和15年にウイスキーが商品となり、第1号ウイスキーの発売となる商品名は社名の「大日本」のニと「果汁」のカをとって「ニッカウヰスキー」として発売となりましたが、カタカナの名称は当時としては珍しいものでした。

■世界が認めた余市モルト
世界中に会員を有するウイスキー愛飲家の会員組織(ザ・スコッチ・モルト・ソサエティ)がニッカウヰスキーの余市モルトを会員頒布用のウイスキーとして、2002年に認定しました。
これまでに115の蒸留所を認定していましたが、ニッカウヰスキー(株)余市蒸留所は116番目、その認定基準が極めて厳しいことから、今までスコットランド以外で認定されたのはアイルランドの1蒸留所だけでした。また、2005年には、仙台宮城峡蒸留所も124番目の蒸留所として認定になりました。

「積丹半島と神威岬」(積丹半島)
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日本海の青白き怒濤に刻み込まれたダイナミックな海岸線。高い透明度から北海道唯一、海中公園の指定を受けるマリンブルーがどこまでも続き、半島の突端には、水平線が浮かび上がるように神威岩が屹立し、それらは正に神が創った造形美といえます。
また、積丹半島は、かつてニシン漁の旧大漁場として栄え、番屋や袋澗などが保存され、それらの遺構からは今も勇壮な「ソーラン節」が、心地よく潮騒にのり聞こえてくるようです。
風向明美な自然景観の保全と通年型観光振興の調和をテーマに周辺地区と連携した広域的な取組みから地域の活性化に向けた活動の広がりが期待されます。

■積丹半島の歴史と神威岬への思い
北海道の北西部に位置し、日本海に向けてこぶしのように突き出した積丹半島。はるかな水平線を切り立つようにそびえる断崖、険しい地形が海岸線を縁取り、周辺には数々の伝説を秘めた奇岩怪石があちらこちらに存在します。
これらは、はるか昔に起こった海底火山の影響により、海底から吹き出した溶岩が海水に触れ、その姿のまま冷え固められたものです。そしておよそ300万年前に半島全体が隆起し、その姿を地上へとさらすこととなりました。更に長い年月をかけて、日本海の打ち寄せる荒波や潮風により、侵食され、今のような姿が形づくられたもので、大地と海のエネルギーが激しくぶつかり合い、今日の海岸美が形成されました。
自然の力によってつくりだされたこれらの岩を、町民はそれぞれに思いを込めて見つめてきました。その中でも、古くから信仰の対象としてきた特別な岩、それが半島の中央に位置し雄大な神威岬から突き出た神威岩です。「神威(カムイ)」とはアイヌ語で「神」を表す言葉で、それは人知を超えた自然の猛威をもたらす「荒ぶる神」だと言われ、地元では「お神威様」と呼び、遥か昔より海の安全と大漁を祈願してきました。

「京極のふきだし湧水」(京極町)
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羊蹄山からの湧き水として最大であり、国内としても最大級のものです。北海道西部(日本海側)の多量の降雪がもたらす北海道ならではの恩恵の一つの形です。
水と触れ合う公園設備や、水を活用したさまざまな商品開発により、地域経済の活性化が実現しています。豊かな水は、北海道が誇る自然資源の代表的な存在であり、その象徴的な場所として、今後は、公園周辺における食品産業の集積や、水について学ぶことができる博物館の整備など、一歩進んだ活動が展開されることを期待します。
暑さが本格化すると、札幌やはるばる本州から訪れる人々が列をなすふきだし湧水。豊かな自然がじっくりと生んだおいしい水が、今日も多くの人々ののどを潤しています。

■京極町民にとってのふきだし湧水とは
そもそも、京極町のふきだし公園は、昭和初期に岩内町梅沢富士郎氏により町へ寄付されたものでした。
それと同時に京極龍門寺松田玄龍和尚が、「観音様の霊水」として、不動明王、三十三番観音像を設置しました。数ヶ所から流れる冷たい湧水は町民にとって憩いの場所、町のオアシスとなりました。
飲料水、下水道、工業用水などとして使用している湧水を京極町は「町の貴重な財産」と位置付け、良質な水資源を保全する環境整備を進めてきました。
そして昭和60年に京極のふきだし湧水が環境庁(当時)の「名水百選」に選ばれました。このことを受けて、町ではふきだし公園の整備を進めました。8年間で約7億円をかけて、遊歩道、吊り橋、駐車場、湧水の素晴らしさをPRする名水プラザ等、湧水の保全を図りながら、訪れる人々にとって使いやすい設備が整いました。
平成2年には名水百選に選ばれたことを記念して7月に第一回「しゃっこいまつり」が開催されました。町をあげて水に感謝し、そして、その水の恩恵を受けて、町を盛り上げていこうというこのイベントは現在まで毎年開催されています。また、同年ふきだし湧水は建設省の「生活を支える自然の水50選」に選定されました。
その後もふきだし湧水を活用したまちづくりは進展しました。
平成5年から平成10年にかけて、「スリーユーパーク整備事業」としてふきだし公園の近くに、キャンプ場やパークゴルフ場などが作られ、そして、京極温泉が建設されました。これらの設備ができたことによって、ふきだし湧水は水を汲みに来るだけではなく周りの施設との複合的な利用が可能となり、これらの施設には現在でもたくさんの人が訪れています。
平成8年には国土庁の「水の郷百選」に選定、平成10年には町外から訪れた人の数が100万人を突破しました。

-関連リンク-
「名水きょうごく」と「名水コーヒー」

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2007年02月18日

北海道遺産シリーズ

「開拓使時代の洋風建築(時計台、豊平館、清華亭など)」(札幌市)
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「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/

札幌市の時計台や豊平館は、開拓使の事績を伝える歴史遺産であり、日本列島の北にあって、文明開化の時代の先端をいっていた北海道の特色をよく表しています。
時計台は札幌市のシンボルであるとともに、近年は2階ホールが、音楽会や講演会などさまざまイベントの場として親しまれており、豊平館も婚礼祝宴の場などとして、長年活用されています。
明治初期の洋風建築は全国各地に建てられていますが、北海道においては和洋折衷型も含め、旧永山武四郎邸、清華亭、旧黒岩家住宅、工業局庁舎、さらに札幌農学校の農場建築などが潰されています。

「札幌苗穂地区の工場・記念館群」(札幌市)
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札幌市の創生川以東は、明治期から「産業のまち」として栄え、今も福山醸造をはじめとした大小さまざまな工場や倉庫が下町的な雰囲気を残しています。れんがや札幌軟石造りの建築物も現役で稼動し、往時の面影をいまに伝えています。
また、苗穂駅近隣にある北海道鉄道技術館、サッポロビール博物館、雪印乳業史料館は、内容も充実し、北海道の産業史を知る上でも貴重な記念館群を形成しています。
さらに、苗穂地区では地元住民らによるまりづくり活動も活発に行われており、北海道遺産を活用した新たなまちづくりの動きも起こりつつあります。

「小樽みなとと防波堤」(小樽市)
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小樽港北防波堤は「港湾工学の父」と言われる広井勇氏により建設されました。独特の傾斜ブロック工法の採用による、日本初の長大堤防です。小樽みなとは北海道移住者の玄関口であるとともに、北の物流拠点、貿易港として、商業都市小樽の繁栄を支えました。今も現役で機能する北防波堤は、当時の記憶を今に伝える第1級の遺産です。
小樽市では小樽港を物流拠点としてだけではなく、市民や訪問者の交流拠点としても活用すべく、心地よい水辺空間の創出を進めています。さらに近年では小樽のみなとと防波堤について学び、その素晴らしさを訪れた人々に伝えようという観光ボランティアの活動も盛んになっています。

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2007年02月14日

北海道遺産シリーズ

「石狩川」(流域市町村)
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大雪山系を源とし、上川、空知、石狩の大平野を形成して日本海に注ぐ道内随一の大河川です。
北海道開拓の歴史の中で、度重なる洪水と闘いながら、舟運や運河が内陸への交通・物資輸送の道として多大な役割を担ってきたことや、鮭などの漁業や各種の用水利用など、石狩川は北海道発展の歴史や文化が刻み込まれている母なる川です。
今日において、安全で豊かなふれあいのある河川の実現を目指して、地域の意見を反映した川づくりのためにさまざまな取組みが行われています。


「江別のれんが」(江別市)
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明治24(1891)年、幌向村江別太(現在の東光町)で「江別太煉化石工場」の操業が、れんが生産の始まりとされています。平成18年で製造から115年の歴史を刻みつづけてきた道内のれんが生産地は江別だけで市町村別生産量は日本一。全国の生産の約4分の1を占め、れんがを現役で生産しつづけ、まちづくりに積極的に使用している貴重なまちです。
古いものを保存する一方で、後世に残すために新しいものを創り続ける息の長い取組みはまるでれんがを下から1個1個積み上げていくれんがが建造物の製造過程に似ています。「れんがのまち江別」のオンリーワンの個性は北海道遺産として構成に引き継がれていくものなのです。

「北海道大学 札幌農学校第2農場」
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「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/
模範家畜房および穀物庫は、札幌農学校開校の翌年に設計された北大でも最古の施設群であり、農業実施設であるとともに、日本農業近代化のモデルとしても構想されたものです。
明治末期に新設された牝牛舎などとともに、一式の農場施設を構成しています。農業機械群は、明治初期農場開設時の輸入機械をはじめ、近代農業史を語る貴重な資料となっています。
現在、北大では、北海道大学総合博物館を中心とした、市民に開かれたキャンパスづくりを推進しています。第2農場は、その一翼を担う場として、春と秋の年2回、市民へ公開されています。数年後の常設展示公開も現在検討中です。こうした試みは、大学と市民の新たな関わり方を提案するものとして、全道各地の大学に与える影響も大きいと期待されます。

■生い立ち
札幌農学校は、マサチューセッツ農科大学学長であったウイリアム・スミス・クラークを教頭として招き、明治9年8月14日に開校しました。開校早々にクラーク先生は実践的農業教育のために北海道開拓使の実験農場であった「札幌官園」を農学校のカレッジファームとして移管を受け、「第1農場」を学生の教育と研究用、「第2農場」を畜産経営の実践農場としました。すなわち、「札幌農学校第2農場」はクラーク博士の大農経営構想に基づいて、一戸の酪農家をイメージした畜舎と関連施設を擁する模範農場を目指して、開校から1ヵ月後の9月13日に発足したのです。そのため、その中心となっている最初に建てられた畜舎を現在でも「モデルバーン(模範家畜房)」と呼んでいます。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺産 
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2007年02月12日

我家の食卓のアイドル「きゅうりのキューちゃん」

今日は、うちの家族や孫達までも、以前からだあ〜い好きだった「きゅうりのキューちゃん」を紹介します。
 「きゅうりのキューちゃん」に初めて出会ったのはテレビのコマーシャルに坂本九さんが起用されていた頃だと思います。当時は現在ほど低塩ではありませんが、口にした時のあのパリットとした爽やかな噛み心地は、忘れること無く、今に進化しています。    新しい「きゅうりのキューちゃん」の素材へのこだわりも大変なもので、皮が薄く実のしまった歯切れの良いキューちゃんに最適な「四葉(スーヨー)」というきゅうり、苦みの少なく南国沖縄の太陽のエネルギーをいっぱい吸収したゴーヤと、すっきりした風味で辛みひかえめの「土佐一しょうが」を薬味に使用し、お口でふわっと広がる独特の香りと風味は、オリジナルの本醸造醤油とも合マッチして、絶妙の味わいになっています。また、不足しがちな食物繊維を3000mg(100gあたり)配合、ごはんに合うおいしい野菜ですexclamation×2
http://www.kyuchan.co.jp/kyuchan/blog/index.html
posted by 井上 昭三 at 20:30| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ブログのネタ切れの時に利用してみるのも

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今日は何を書こうか悩むことはありませんか?
いいネタも、そうそう思いつかず、時間もあまり無い。そんな時に偶然「ブログのかんづめ」を見つけて会員登録しました。ブロカンから送られて来るメールには流行の情報とかけっこう魅力的な情報も多く読んでいるだけでも楽しく、その上ポイントも貯まっていくのですから、本当に楽しく情報発信できアクセスUPにもつながる、素敵なサービスです。
posted by 井上 昭三 at 13:03| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月08日

北海道遺産シリーズ

「土の博物館『土の館』」(上富良野町)

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「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/

「土の博物館 土の館」は平成4年7月1日に、世界的に類を見ない土壌モノリス展示のほか、世界のプラウと犂(スキ)、世界のトラクター展示、農耕の歴史などをテーマに開館しました。
大正15年の十勝岳噴火爆発によって発生した泥流のようすを示す4mもの「泥流地帯モノリス」や樽前山周辺(早来町)の「未開のモノリス」などが展示されており、原生林を切り拓いてやっと収穫できるようになった田園を泥流で失いながらも、その地にこだわち、客土によって耕作地を復活させた、北海道開拓民の農業に対する不屈の精神を見ることが出来る学習研修施設です。

「雨竜沼湿原」(雨竜町)

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雨竜沼湿原は暑寒別産地のほぼ中央に位置し、暑寒別岳、南暑寒別岳、恵岱別岳、群馬岳などに囲まれた標高850mの台地に形成された、およそ100haの面積を有する山岳型高層湿原帯です。
山地湿原としては、尾瀬に次いでスケールが大きい上、ほぼ真円の池塘(ちとうと呼ぶ湿原の沼)が大小100あまり点在し、しかもそれらの地塘が棚田のように高低差をもって並んでいて景観の変化が大きいというユニークな特徴があります。また、雨竜沼湿原は四季それぞれに魅力的ですが、登山シーズンの6月下旬から8月にかけて様々な花が咲き乱れる植物の宝庫であり、これまでに120種以上の湿原植物が報告されています。これらの植物によって構成される群落は37群落に達し、湿原の種並びに多様性は国内的に極めて希少であり、学術的にも高い評価を受けています。

「北海幹線用水路」(空知地域)

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北海幹線用水路は、空知平野の水田を潤す用水路で、農業専門の用水路としては日本で最も長いもので、空知北部の赤平市から砂川市、奈井江町、美唄市、三笠市、岩見沢市、北村、栗沢町、南幌町と北から南へ約80kmに及び、受益面積は約26,000haに達しています。ルートは夕張山地の西側の丘陵下部に沿って南下しており、途中いくつかの河川や道路・鉄道を横断するために水路橋やサイフォンおよびトンネルなどの工法が採られています。
幹線用地は用水路幅4〜16mを含め幅が最大で54mあり、この土地を利用した景観づくりが各地で進んでいます。また、市街地や住宅地を通ることもあり、迂回の必要や危険も伴うことから、この用水路にふたをして上を公園にしたり、親水広場にするなどの工夫も凝らせています。また、同じ景観づくりでも地域の子供たちや住民の参加を受けた植栽や植樹の活動も行われています。

「空知の炭鉱関連施設と生活文化」(空知地域)

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空知地域は、国内最大規模の産炭地として、最盛期に100炭鉱・83万人の人口を擁し、日本の近代化と経済成長を支えました。近年、同地域の産炭地自治体は「そらち・炭鉱(やま)の記憶推進事業」、「そらち・炭鉱(やま)のまちからの挑戦事業」などの、当時の繁栄を現在に伝える事物・記録を活用した地域づくりに広域的に取り組んできました。
その結果、炭鉱遺産を活用した地域づくりを推進する母体となる新たな地域づくり団体が各地に設立され、着実な活動を進めてきました。そういった地域の情熱が評価され、2003年9月には国際鉱山ヒストリー会議が赤平市で開催され、海外からの専門家も多数出席する中、地元赤平市や地域づくり団体のネットワークの協力のもとで、成功をおさめました。

■日本の近代化を支えたエネルギー「石炭」
日本の石炭産業は、明治以来、開発が進められ、本道の基幹産業として発展し、最盛期には158炭鉱が操業していました。国内エネルギーの供給基地としてわが国の経済発展に寄与し、地域の特徴ある生活・文化の形成を促し、地域の発展を担ってきました。
しかし、昭和30年代に入り、エネルギー革命による石炭需要の低迷から、石炭工業が斜陽化を迎えて閉山が相次ぎ、空知管内では平成7年の空知炭鉱(歌志内市)を最後に、坑内掘り炭鉱はすべて姿を消しました。多くの炭鉱の閉山は、炭鉱を基幹産業として発展してきた地域の人口流失や失業者を増大させ、繁栄のシンボルでもあった炭鉱関連施設は荒廃が進むなど、急速な地域社会の衰退を招きました。
その後も閉山の深刻な影響から脱却できず、マイナスの地域イメージや地域アイデンティティの喪失など、経済的・社会的に多くの深刻な課題を抱え、地域の将来のビジョンが描きにくい状況にありました。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺

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posted by 井上 昭三 at 15:10| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月05日

北海道遺産シリーズ

「旭橋」(旭川市)

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「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/

旭橋は、買物公園や旭山動物園とともに、旭川をイメージする代表的な市民の財産であり、各種ポスターやパンフレットの表紙等でも数多く活用され、長い間にわたって、市民や地域で親しまれてきました。
その独特のアーチ状の外観は、本市の中心市街地にあって、大雪山や石狩川などの自然と調和して美しい景観を創り出し、平成9年には市民応募などをもとに設けられた「旭川八景」の一つに選ばれています。
また、市政開基100年の記念事業として、旭橋を中心とする石狩川エリアにリベライン旭川パークも整備されており、今後も市民の心に残る貴重な財産として、また各種イベントのシンボルとして活用、展開が期待されています。

■「鷹栖橋」から初代「旭橋」へ
現在旭橋がある地点に、初めて木製の「鷹栖橋」が架けられたのは明治27年のことでした。
しかし「鷹栖橋」は明治31年の洪水で全壊。橋の改築が進められることになり、明治37年、北海道では2番目となる鋼道路橋が完成しました。旭川の市街地にあるのだから名前も変更すべきという意見により、名前は現在の「旭橋」に決定しました。


■優れた技術を追求して誕生した旭橋
しかし、初代「旭橋も」昭和の初めには老朽化が進み、揺れがはげしくなりました。一般交通上、軍事上の観点から架け替えが求められるようになり、また地元の強い要望もあったため、再び改築が決定しました。
新しい橋の設計指導を担当したのは当時北海道大学工学部長だった吉町太郎一博士でした。吉町博士は「旭川のシンボルになるような橋を」と考え、美しいアーチ構造をもつ現在の旭橋のデザインが決められました。
昭和4年11月から始まった工事ではアーチ構造を実現するために様々な工夫や技術が用いられました。
そのひとつが、荷重対策として特殊な鋼材を使用したことです。アーチ橋では、橋に重さが加わることによって、下へたわむと同時に外側に広がろうとします。この力に耐えるために旭橋の一部の部材には遠くドイツから輸入した銅とクロムを含む鋼が使われました。
また、温度変化によって起こる橋の伸び縮み対策や、軽量化を図ると同時に強度も確保する知恵などを施し、昭和7年11月に現在の旭橋が完成しました。


■多くの人々に愛される橋へ
旭橋の特徴は、なんといってもデザインの美しさです。
大雪山連峰をバックに映えるアーチ橋の雄姿は、札幌市の先代豊平橋、釧路市の先代幣舞橋と並んで「北海道三大名橋」とされています。
もうひとつの特徴は、構造物としての丈夫さです。ほかの名橋が架け替えられた中、旭橋は完成当時と変わらない姿を保っています。
また、ランタン型照明灯の復元や、塗り替えの際には市民アンケートで色を選ぶなど、その維持管理には市民の声が生かされています。


提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺産







 
posted by 井上 昭三 at 14:50| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月04日

北海道遺産シリーズ

留萌のニシン街道
(佐賀番屋、旧花田家番屋、岡田家と生活文化)」(留萌地域)

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「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/

番屋に象徴されるニシン漁は、北海道独自の漁法を伝え、松前藩の時代から、北上するニシンを追って北海道の西海岸一帯をニシンの千石場所に変える中で、地域にさまざまな物語を残しました。道民にとってもニシンは「春告魚」であり、忽然と姿を消した今でも記憶に刻まれています。
1999年春、留萌沿岸は45年ぶりにニシンの郡来(くき)を見て以来、少しずつニシンが回帰しています。番屋をはじめ、ニシン漁の賑わいを伝える資料が多いことからも「ニシン街道」として広域活動を行う要素に恵まれています。街道ツアー、ニシンにちなんだ祭り、ニシン創作料理など、「ニシン」にこだわったまちづくりが進められています。

■ニシンとともに歩んできた留萌地方

留萌市は北海道の中でも古い歴史を有しており、1596〜1614年には松前藩によるアイヌの人たちとの交易の場所として、「ルルモッペ場所」が開設されたのが始まりといわれています。
その後留萌はニシンとともに繁栄し、「ニシンといえば留萌」と称されるほどに名を馳せました。
「佐賀番屋」は、往時の施設、ニシン船、漁具とともに、生活用品等がそっくりそのまま残されており、今すぐにでもニシン漁を行うことができるほどと言われています。「佐賀番屋」はまさしくニシン漁撈史のシンボルとも言えるのです。

■現在の留萌地方にとってのニシンの存在
昭和29年を境に、留萌でも群来(くき・・・ニシンが産卵のため大群で岸に押し寄せること)は見られなくなり、昭和32年を最後に留萌のニシン漁が終焉を迎えることになりました。
しかし、現在でもニシンにかける「夢」を捨てきれず、春が近づいてくるとニシンの刺し網を仕掛ける漁師たちがいます。そして、ニシンを呼び戻すための稚魚の放流も行われています。こんな願いが通じたのか、平成11年の春には45年ぶりに留萌の前浜で群来が見られ、産卵のため白く濁った海面に、留萌市民は沸きあがりました。
ニシンの卵の加工品である留萌の「塩かずのこ」は全国一の生産高を誇っています。留萌は今でもニシンのまちなのです。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 

◆その他の写真◆

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posted by 井上 昭三 at 11:59| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月03日

北海道遺産シリーズ

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天塩川は、北見山地の天塩岳を源とし、剣淵川、名寄川、問寒別川などの支流を集め日本海に注ぐ、北海道第二の大河川です。流域の上流部は高山植物の豊富な天塩岳道立自然公園、下流部は北海道最北端の湿原、サロベツ湿原の広がる利尻礼文サロベツ国立公園に指定され、緑豊かな自然と、動植物がみられます。
また、河口までの157kmを一気に下ることができる、日本有数のカヌー適地として多くの愛好家が訪れ、カヌーツーリングを楽しんでいます。流域12市町村とその住民により、官民一体となった地域づくり、情報の共有化、河川環境保全等の幅広い取組みが進められています。
「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/

■天塩川を舞台にした活動
天塩川流域は12の自治体に分かれており、当然、環境や文化、取組み等には若干の違いがあります。しかし、天塩川に対する思いや考えは昔から変わっていません。
各流域市町村には独自に天塩川と関連づけたまちづくりや取組みがあり、また、広域的に取り組んでいる事例もあります。広域的な取組み事例として、平成14年度から始まった「天塩川クリーンアップ大作戦」は、7月の河川愛護月間に行われるイベントで、天塩川の美しい流れを次代に生きる子供たちに引き継ぐため、流域12市町村やNPO法人天塩川リバーネット21、関係諸団体が一体となって、天塩川や河川敷の清掃に取り組むものです。
また、平成16年6月には、天塩川左岸名寄大橋上流河川敷において「天塩川水防公開演習」が、上川北部9市町村と北海道、北海道開発局が主体となり、約3700名の参加者で実施されました。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺産

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posted by 井上 昭三 at 10:27| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月02日

北海道遺産シリーズ

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「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/

宗谷丘陵に見られるなだらかな地形は、約2万年前の最終氷河の間に形成された氷河由来の特徴的なもので、氷河周辺部での凍結融解の繰り返しによってできたものです。
谷が樹枝状にのびる地形は、上空からよく観察されますし、丘陵上の道路を通ると緩やかな起伏を感じることができます。明治44年5月に発生した山火事で森林が失われて、その後は多くの笹に覆われていますが、谷沿いにはようやく森林が回復しつつあるのが見られます。
日本最北端のこの丘陵には、国内最大規模を誇る広大な肉牛牧場があり、厳しくも豊かな自然に育まれた健康な「宗谷黒牛」が約2600頭放牧されています。

■偶然が造り出した美しい地形
日本最北端の地、宗谷岬の背後に広がる丘陵は、高さ20〜30mから、せいぜい200mで、稜線も谷も丸みを帯びています。
V字型の鋭い稜線や谷を見慣れた人の目には、これらの丘陵は日本離れした光景として映るようです。
稚内の内陸部を特徴付けるこれらの丘陵は、周氷河期地形と呼ばれます。石の割れ目に入る小さな雨粒でも、凍結と融解を繰り返しているうちに、岩を割ることができます。また、地表が凍結・融解を繰り返していくと、流土現象といって土壌内で対流が起き、稜線の角が崩れ落ちて丸みを帯びるだけではなく、地表部全体にわたって流土現象などが一斉に動くので険しい山地も、平坦でなだらかな周氷河性の波状地になってしまうのです。この波状の丘陵ができたのは、氷河時代の末期といわれています。

■自然と風土を生かす
丘陵内には手付かずの自然が残る広大な土地を牧草地として活用し、「宗谷黒牛」を生産する宗谷岬肉牛牧場があります。冷涼な気候風土の中、2600頭の肉牛を飼育しています。
生産理念として、大地の健康、牛の健康、消費者の健康を大切にした肉牛生産を掲げ、自然環境保全の重要性を認識し、牧草地の無化学肥料化など、環境負荷の少ない資源環境型肉牛生産を推進しており、ここで生産する宗谷黒牛は、国内農畜産物産地に対する認証制度である「全農安心システム」の第1号認証産品です。
また、風力などの地域自然エネルギーや漁業副産物の飼料化など地域資源の有効活用に積極的に取り組んでおり、北海道遺産に認定された周氷河期を生かし、自然と共生できる経営を目指しています。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺産 

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2007年02月01日

北海道遺産シリーズ

「稚内港北防波堤ドーム」(稚内市)

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「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/

樺太航路が開設されていた稚内港における冬季の北西波防止のために昭和11年に建設された、半アーチ式ドームです。海上からの高さ14m、柱間6mの円柱70本を並べた、長さ427mの世界でも類を見ない、独特の景観と構造をもちます。
設計者は土谷実氏。設計を命じられた当時、北大工学部を卒業して間もない26歳の土木技師でした。
若い土谷の北の荒波への挑戦は、港湾土木史に残る傑作を生み出すこととなったのでした。
最北端の厳しい自然条件に耐えてきましたが、しだいにコンクリートが古くなり危険な状態になったので、一度取り壊し、昭和56年に原型通りに再現したドームが建設されました。

■地域にとっての北防波堤ドームとは
ロシア連邦サハリン州は稚内市から43kmの至近に位置しており、稚内港では大正12年5月に鉄道省により、樺太大泊(現サハリン州コルサコフ)への稚泊航路が開設されました。翌年には本斗(現ネベリクス)への連絡船が就航し、昭和9年には利礼航路が定期化されるなど、交通の要衝として目ざましく発展してきました。樺太航路は昭和20年に廃止されるまで22年間で約284万人もの乗客を運んだのです。

稚内市は、日本海とオホーツク海がぶつかり、四季を通じて強風が吹く波高い場所として知られていますが、高波は当時かろうじて完成された5.5mの防波堤も易々と越えて岸壁にいる乗客を襲い、時には海に転落するという事故もあったことから、波よけが必要となり、昭和6年〜11年までの5年間の歳月をかけて、この北防波堤が作られました。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺産 







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