2007年03月05日

北海道遺産シリーズ

「霧多布湿原」(浜中町)
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「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/

霧多布付近に広がる3168ヘクタールの面積を有し、ラムサール条約登録湿原でもあるとともに、一部は「霧多布泥炭形成植物群落」として国の天然記念物に指定され、学術的にも貴重な湿原で数百種の高山植物が自生しています。6月下旬から8月中旬にかけてワタスゲ、エゾカンゾウ、ノハナショウブなどの群生は原生花園として知られています。
地域には行政とも連携しながら湿原保全のトラスト活動を積極的に行うNPO法人が存在し、コミュニティ・ビジネスのモデルとしても評価できます。湿原の保全が昆布を始め水産資源の維持に効果的なことが自治体にも漁協にも認識され、後背部の農業地域も環境保全型農業を目指すなど、自然と産業の見事な融和のもモデルとして期待されています。

■霧多布湿原とまちづくり
霧多布湿原は北海道東部の太平洋岸から広がる約3000ヘクタールの広さをもち、「花の湿原」として親しまれています。またこの湿原は、タンチョウをはじめとする多くの水鳥たちの生息地として貴重な湿原であることから、平成5年にラムサール条約湿原として登録され、さらに13年には未来に引き継ぐ北海道の自然として「北海道遺産」にも認定され、あらためてこの湿原の価値が見直されてきました。
また、その一方では、家屋の造成や工事による埋め立てなどにより、この湿原も変貌してきました。そのような状況の中で、いま行政と市民がいっしょになって「ナショナルトラスト」などによる霧多布湿原保全の取組みが進められています。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より  

「摩周湖」(弟子屈町)
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世界有数の透明度で知られ、大気汚染の指標に用いられるとともに、周辺の自然もよく保全され、その際だった景観は、北海道の湖沼と山岳の複合景観として最も代表的なものです。
さらに地域住民の環境意識向上を基本に捉え、自然環境と調和しながら観光産業を活性化させようとする取組みが注目されています。平成14年8月には摩周湖周辺の環境保全を第一に、地元経済の活性化を図ることを目的とした指針「TeshikagaECO プロジェクト〜北海道遺産摩周湖を中心とした環境マスタープラン」が地元団体から提出されました。

■弟子屈町民にとっての摩周湖
農業と観光という2つの基幹産業を柱にして発展してきた弟子屈町(てしかがちょう)。とりわけ豊かな温泉と数多くの景勝ポイントを売り物とする観光産魚の発展なくして今の弟子屈町はなかったといっても過言ではありません。そして弟子屈町の数ある景勝ポイントの中で、町を代表するシンボル的存在が摩周湖なのです。弟子屈町は難読市町村名としても名高く、その読み方や所在はあまりにも知られていません。しかし「摩周湖のある町」といえば、誰でもわかるほど、摩周湖は非常にポピュラーな存在であり、町は計り知れない恩恵をうけてきました。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より
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2007年03月04日

北海道遺産シリーズ

「螺湾(らわん)ブキ」(足寄町)
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足寄町の螺湾川に沿って自生する螺湾ブキは、北海道に分布するフキの中で、最も大型のもので、かつては高さ4mに及び、その下を馬に乗って通ることができたといいます。フキは東北アジア、ことに大型の種類は北海道を中心に分布するものですから、それらを代表する存在といえるでしょう。
地元では産学官が一体となった特産品開発や栽培の取組みを進めてきました。その結果、「ラワンブキ」の名は瞬くうちに広がり、地域住民が知恵を出し合い、育ててきたオリジナルブランドは全国的な知名度を誇るようになりました。北海道遺産選定を機に、地域活性化に向けた活動の輪はさらに広がりを見せています。

■大きなマチの大きなフキ
フキは、北海道から九州まで広く自生しているキク科の植物で、ウド、ミツバ、セリ等ともに、今日では数少ないわが国原産の野菜です。
フキが食用として利用された歴史は古く、すでに奈良時代中期に食用に用いられていた記録が残っており、府県では今でも祝い事には欠かせない食材となっています。
螺湾ブキは、足寄町の螺湾川に沿って自生しているもので、北海道に分布するフキの中で最も大型なものです。一般のフキと比べてカルシウムやマグネシウムなどのミネラルが豊富で、繊維質にも富むという特徴があります。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺産 
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「旧国鉄士幌線コンクリートアーチ橋梁群」(上士幌町)
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上士幌のコンクリートアーチ橋梁は、昭和初期に十勝内陸の産業開発を目指した旧国鉄士幌線に建設されたもので、市民と産学官が一体となった保存運動の結果、上士幌〜三股間に34橋梁が保存されました。アーチ橋自体の技術的な価値とともに、周囲の自然環境と調和した景観が高く評価され、最近では新しい観光の形として、産業遺産をめぐるツアーともタイアップするなど、第1級鉄道遺産としてますますその知名度を高めています。
注目すべきはその保全活用策です。上士幌町では自然環境系、まちづくり系の2つのNPO法人が組織され、行政との協働のもと、アーチ橋およびその周辺の自然環境の保全と活用のため、積極的な実践活動に取り組んでいます。こうした地域住民主体のまちづくり手法は全国的に広がりを見せており、上士幌町はその先進的モデル地域といえます。

■アーチ橋のすばらしさ6つの要約
?厳しい自然条件の中で建設された大きなアーチ橋として北海道で最も古く、他のアーチ橋のお手本となったこと。
?昭和10年代から30年代と、第二次世界大戦前から戦後にかけて建設されたアーチ橋がたくさん残っているため建設技術の変化を知ることができること。
?周りの景色を壊さないように考えられて設計されたことや当時の工事記録がしっかりと残っていること。
?アーチ橋だけではなく、士幌線の道路跡も一緒に残っていること。
?十勝地方はもちろん、道東には数少ない戦前の土木遺産、産業遺産であること。
?文化庁の登録文化財として登録に値すること。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 

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2007年03月02日

北海道遺産シリーズ

「静内二十間道路の桜並木」(静内町)
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「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/

二十間道路は、明治36年に宮内庁所管の新冠御料牧場を視察する皇族方の行啓道路として造成されました。幅二十間(36m)、直線約7kmという雄大なこの道は、いつの日からか二十間道路と呼ばれるようになりました。
この並木は大正5年〜7年の3年にわたり、当時の御料牧場職員が近隣の山々からエゾヤマザクラなどを道路の両端に移植したもので、その数は約3,000本にもおよび、例年満開時期の5月上旬頃には、新緑の中、連なる日高山脈を背景にその華麗なる桜の競演を一目見ようと、道内外から20万人を超える観桜客で賑わいます。また、桜並木の両端には、北海道の雄大さの象徴である牧場が一面に広がり、日本一のサラブレッドの生産地として知られており、デビュー前の仔馬や、戦いを終えて種牡馬生活を送る馬たちがのんびり草を食べる姿を見ることができます。

■二十間道路桜並木と競走馬
二十間道路桜並木は、当時宮内庁所管の新冠御料牧場(現在の独立行政法人家畜改良センター新冠牧場)の敷地内にあります。
この牧場は明治5年初代北海道開拓使長官・黒田清隆が静内を訪れた際、野生の馬が群れをなしているのを見て、積雪の少なく、野草の多い日高地方が産馬改良には最適地であると判断し、静内・新冠・沙流郡にまたがる約7万ヘクタールに及ぶ大きな牧場を区画し、野生馬2,262頭を狩り集めて放牧したのが始まりです。
その後、この牧場は明治10年に米国人エドウィン・ダンにより、近代的な牧場として生まれ変わり、本格的な軍馬の産地に育てられました。
これにより、静内町は馬と共にその歴史を刻むことになり、そこに二十間道路が誕生することとなります。
二十間道路は、明治36年に新冠御料牧場を視察する皇族方の「行啓道路」として造成され、桜並木については厳しい風雪に耐え、高齢木となった現在もけなげに可憐な花を付け咲きつづけています。
桜並木の外側には針葉樹が植栽されており、常緑を背景として桜の美しさが際立ちます。遠くには秀峰日高山脈を望み北海道のスケールを象徴しており、「日本一の桜並木」の名に相応しい桜の名所です。
また、静内町は日本有数のサラブレッドの産地であり、並木周辺には、将来デビューを待っている仔馬が母馬に寄り添いのびのびと駆け回ったり、戦いを終えた名馬たちがのんびりとしている姿が印象的な風景となっています。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺産 




「モール温泉」(音更町など)033.jpg

太古の植物が朽ち果て、堆積した地層を通って湧出する琥珀色のモール温泉は、過去からの贈り物であり、現代を生きる私たちが、未来に向かって大切に残していかなければならない貴重な遺産です。
十勝平野の真中、音更町の十勝川河畔に湧く十勝川温泉の泉質が、北海道遺産として選定されたこのモール温泉です。モールとはドイツ語で亜炭を意味しており、モール温泉にはこの亜炭層を通って湧出する琥珀色のお湯が特徴です。主成分である植物性腐食質から溶け出したフミン質は美容に効果があるといわれており、十勝川温泉は別名美人の湯として親しまれております。
資源には限りがあります。音更町では、この貴重なモール温泉を枯渇から守るため、ホタルを呼び戻す試みに象徴されるように自然環境と一体となった取組みを進めています。

■モール温泉とは
モール泉は世界的にも珍しく、日本国内では北海道のごく一部の地域に湧出する温泉です。
十勝川温泉はこのモール泉を大切に守り、貴重な観光資源として利用してきました。
北海道大学大学院地学研究科の資料によると、十勝川温泉の地下構造は「ある状態から別状態にかわる(遷移)部分にあたり、深部から湯量が上昇し浅部一帯に広がっている温泉」であるとのことです。平野部の比較的浅いところから温泉が得られることから、火成岩体が潜在し、冷却しきれない熱が、ガスあるいは高温の温泉として多量の地下水を温めている。または、地層中の有機物が分解されるときの熱が熱源になっているといわれています。
モール温泉は植物性腐食質を多く含み、その主成分であるフミン質は、美容効果に優れているといわれています。また、人体皮下浸透度が非常に高く、短期間で体の芯まで温まり、さらに植物性のため皮膚を刺激することもありません。入浴後のスベスベ感が、特に女性の人気を高めており、十勝川温泉は別名「美人の湯」として多くの人たちに親しまれています。
最近では、都市の喧騒から離れ、ひと時の癒しのスポットとしても注目されています。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺産 



posted by 井上 昭三 at 12:50| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(10) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月01日

北海道遺産シリーズ

「函館西部地区の街並み」(函館市)
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「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/

函館山と函館港に囲まれた函館西部地区は、函館発祥の地であり、函館が最も繁栄した明治末期、大正、昭和初期に建てられた和風、洋風、和洋折衷様式の歴史的な建造物が数多く残されており、これらが坂道、街路樹などと融合しながら函館らしい特色ある街並みをつくりだしています。
この街並みは、市民で愛着を持ち誇りとする貴重な財産であるとともに、歴史的文化遺産であり、市民と行政が一体となり保存に努めています。

■函館市
函館市電は明治期に馬鉄で出発し、大正時代に電車化、市民の足として大発展しました。
戦後自動車化の波の中でも生き残り、ヨーロッパ並の利用定着度を誇っています。今後、環境に優しい都市交通の再構築が議論される中で、市電は決して旧式のものではなく、自転車と並ぶ未来志向型の資産として、高く評価できるでしょう。
ヨーロッパでは各都市に市電網が発達し、市民生活と新しいまちづくりの核になっています。函館では歴史的街並みに似合う市電文化の再生が、愛好会により活発に進んでいます。

■札幌市
札幌の市電は、昭和2年の市営交通発足以来、路線の拡大や車両の工夫・改良を重ねながら、「市民の足」の花形として親しまれてきました。しかし、道路事情の変化や地下鉄の開通で次第に路線を縮小、昭和49年5月には現在の1路線を残すだけとなりました。
一時は全面廃止も考えられましたが、市民の熱望によって存続となり、昭和60年からは23年ぶりに新型車両も登場。現在は車両の更新や、すすきの〜創成小学校間のセンターポール化、軌道・安全地帯の改修など札幌市が平成5年度から取り組んでいる都市環境整備事業の一環として、街並みにマッチする整備拡充を進めています。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺産 

一方、こうした街並みを構成している歴史的な建造物には、宿泊施設や商業施設などの現代生活に生かした積極的な使いかえを行う事例が数多く見られ、こうした商業活動は、地区に賑わいと活性化をもたらす一つの要因になっています。

■生まれ変わった歴史的建造物
現在、都市景観形成地域には、都市景観の形成上重要な価値があると認められる建築物等を景観形成指定建築物等として指定し、48件が指定を受けています。また、伝統的建造物群保護地区内において伝統的建造物として76件が指定を受けています。
これらの歴史的建造物は、明治、大正、昭和初期に建てられてたものですが、老朽化とともに、取り壊しの危機にさらされることもありました。
建物は使用されてこそ意味があるもので、どんなにすばらしい建物であっても使用されなければ傷みは急速に進み、やがて朽ち果てることになります。古い建物であれば、置かれている状況はなおさらきびしいものがあります。
しかし、そのようなきびしい時代の荒波の中でも生き残り、現代生活の中で活用されている魅力的な建物が西部地区には数多くあるのです。















「路面電車」(函館市、札幌市)
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■函館市
函館市電は明治期に馬鉄で出発し、大正時代に電車化、市民の足として大発展しました。
戦後自動車化の波の中でも生き残り、ヨーロッパ並の利用定着度を誇っています。今後、環境に優しい都市交通の再構築が議論される中で、市電は決して旧式のものではなく、自転車と並ぶ未来志向型の資産として、高く評価できるでしょう。
ヨーロッパでは各都市に市電網が発達し、市民生活と新しいまちづくりの核になっています。函館では歴史的街並みに似合う市電文化の再生が、愛好会により活発に進んでいます。

■札幌市
札幌の市電は、昭和2年の市営交通発足以来、路線の拡大や車両の工夫・改良を重ねながら、「市民の足」の花形として親しまれてきました。しかし、道路事情の変化や地下鉄の開通で次第に路線を縮小、昭和49年5月には現在の1路線を残すだけとなりました。
一時は全面廃止も考えられましたが、市民の熱望によって存続となり、昭和60年からは23年ぶりに新型車両も登場。現在は車両の更新や、すすきの〜創成小学校間のセンターポール化、軌道・安全地帯の改修など札幌市が平成5年度から取り組んでいる都市環境整備事業の一環として、街並みにマッチする整備拡充を進めています。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺産

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2007年02月28日

北海道遺産シリーズ

「五稜郭と箱館戦争の遺構」(函館市など)
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「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/

箱館戦争は明治元年10月20日の旧幕府脱走軍の侵略に始まり、翌2年春の新政府軍の反撃により、5月18日の五稜郭開城で終わりました。この戦いは道南一帯に及び、五稜郭・四稜郭(函館市)をはじめとして、旗艦開陽丸が座礁、沈没した鴎島沖(江差町)など、その遺跡、遺構が随所に見られます。
また、五稜郭跡の堀や土塁を利用した市民参加の演劇「市民創作函館野外劇」が催されるなど、各地で箱館戦争の歴史をテーマにしたイベントも開催されています。今後は道南地域が一帯となった広域的な取り組みも期待されます。

「函館山と砲台跡」(函館市)
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津軽海峡を一望できる函館山は、その軍事的価値が評価され、明治中期に要塞化が進められてきました。大規模な旧状を残す軍事土木遺産は全国的にも例が少ない中、現在でも多数のレンガ壁・コンクリート洞窟掩蔽壕・大砲座が残る最大級の戦時遺構です。太平洋戦争の終戦まで立ち入りが制限されたことから、貴重な動植物の宝庫ともなっており、自然に触れることができる散策コースが市民に親しまれています。函館市では昭和50年代より、「函館山緑地整備計画」を策定し、函館山の整備を進めてきました。現在は市民参加型の「函館市緑のパートナー会議」の提言をふまえて策定された第四次整備計画を推進中です。自然保護と観光振興の調和をテーマに、着実な整備が進められています。

■函館市のランドマーク
年間約530万人もの観光客が訪れる函館市。
市のランドマークである函館山は、標高334メートル、海中から噴火した火山で、牛が寝ているような優雅でなだらかな姿から”臥牛山”とも呼ばれており、ナポリ、香港と並ぶ世界三大夜景と称される函館山からの夜景は多くの人々を魅了しています。
しかしこの山の価値は、華やかな夜景だけではありません。
津軽海峡を一望できる函館山には、その軍事的価値が評価され、南下政策をとるロシア防備のため、当時の明治政府によって、1898(明治31)年からフランス陸軍軍事顧問団の指導のもと、4年の歳月を費やして、東京以北唯一の巨大要塞が構築されました。
砲台は、山頂部に連なる御殿山第一・第二・千畳敷第一砲台で、備砲は28センチ、弾砲16門でした。
これにより、軍事機密を守るために、太平洋戦争後の1946年までに半世紀にわたり山への立ち入りが禁止されていましたが、このことが貴重な自然環境が荒らされずに保全され、現在では約600種類の植物が見られます。また、海峡に突き出た形をしているため、海岸沿いを移動する渡り鳥にとって貴重な目印となっていると同時に、休息地として年間150種あまりの野鳥が観測され、「自然の宝庫」といわれる、今の函館山を作り上げる要因となったのです。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺産 
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2007年02月27日

北海道遺産シリーズ

「上ノ国の中世の館(たて)」(上ノ国町)
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「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/

上ノ国は、津軽海峡に面した道南の東側を「下ノ国」といったことに対する日本海側の呼び名です。
エゾヒノキ(ヒノキアスナロ)の深い森を抱く檜山山地から流れ出る天ノ川は河口付近で潟となり、投錨を必要としない天然の良港となります。これが日本海交易ルートの拠点として上ノ国町が繁栄した最大の要因でした。その上ノ国町に所在する「花沢館」「州崎館」「勝山館」の三館が北海道遺産に指定された「上ノ国の中世の館」です。館とは、中世この地方に多く造られた山城のことです。
このうち最も規模の大きい勝山館跡は、昭和54年から発掘調査が始まり、現在も継続しています。現地に立つと中世へのロマンを掻き立てられます。

■上ノ国町にとっての「中世の館」とは
上ノ国町では、松前藩の祖・武田信廣が15世紀後半に築城した山城として知られている国指定史跡勝山館跡や夷王山墳墓群などの発掘調査を昭和54年から開始し、館跡からは空壕、屋敷跡、食器など謎の多い北海道の中世史のミッシングリンクを埋める多くの資料が発掘されました。
また、墳墓群からは、アイヌ人骨も発見され、中世における和人とアイヌ人の共生の証として注目されています。
勝山館跡の特徴は「北」の文化と「中」の文化が海峡を挟んで接触・交流して築かれた「北の中世」の特徴を表現しているところにあり、館跡とその直下の町場との関係も含め、「面白い謎に満ちた城」との評価で関心も高く、北方中世考古学研究の先駆的役割を担っています。

「福山(松前)城と寺町」(松前町)
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江戸時代の日本で最後に築城された城郭です。天守閣は道民からの浄財をもとに再建され、近年は文化庁等の補助を受けて、石垣・城門の復元工事も進んでいます。城の北側には道内唯一の近代的な寺町があり、松前家の菩提寺・墓所なども含めて、現在もなお、往時の雰囲気を体験することができます。
松前町の歴史を知ることは、開拓以前の本道の歴史を理解する上で重要であり、お城や寺町は道民全体の宝物であるという認識のもと、地域においては、関係者が一体となり、年間を通じた観光客の誘致などに向け、より発信力のある活動を展開しています。

■松前公園への思い
北海道で最も早く桜が見頃となり、福山(松前)城と背景に集中的に配置された5つの寺がある寺町が江戸時代の雰囲気を醸し出す松前公園。
松前家の初代藩主、松前慶広がこの地に福山館を築いたのは江戸幕府が開かれて間もない1606(慶長11)年ですが、その後、外国捕鯨船の来航やロシアの南下政策など外国船の出没に備えた北辺警備を目的として、5年の歳月をかけて1854(安政元)年に完成したのが福山(松前)城で、道内唯一、わが国最後の日本旧式城郭です。
また、松前公園は250種1万本を有する「さくらの里」として全国に知られています。
松尾芭蕉の句「一里はみな花守の子孫かや」のとおり、松前がさくらの名所になったのは、この句にあるような「花守」の存在があったからです。大正時代以降、接ぎ木で桜の増殖に努めた鎌倉兼助氏、さらに昭和28年から松前町の小学校教論として全国からさくらを収集し、品種改良によって松前独自のさくらを生み、現在の礎を築いた浅利正俊氏。そしてさくらを守り育てた多くの子供たちや町民の努力が「さくらの里」を育てたのです。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 







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2007年02月24日

北海道遺産シリーズ

「内浦湾沿岸の縄文文化遺跡群」(函館市・伊達市など)
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「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/

古代より南茅部地区(旧南茅部町)周辺は、資源豊かな海と山に囲まれ、文化を発展させるうえで絶好の自然環境に恵まれていました。そのため、この地域には縄文時代早期から晩期にかけておよそ7000年もの間、縄文文化が栄えました。南茅部地区には集落規模としては国内最大級の大船遺跡など89ヶ所の遺跡があり、出土品は精巧な漆塗り製品など400万点を超えます。
また、地元では、遺跡をまちづくりに生かそうと「縄文遺跡の里」をPRしています。
発掘に携わる主婦や商店主、会社員らが「北の縄文CULB」を結成し、普及活動や研究、遺跡周辺の清掃などに取り組んできます。

「姥神大神宮渡御祭と江差追分」(江差町)
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「エンヤ、エンヤ」の掛け声と共に、若者たちが13台の山車(やま)を引っ張り、笛や太鼓で囃子(はやし)をかき鳴らす。
江差の姥神大神宮渡御祭は毎年8月9日〜11日に行われます。360年近くの歴史を持ち、北海道で最古の祭りと言われています。祭りの期間、町内の旅館・ホテルは1年前から予約で埋まり、人口約1万1千人の江差町に、6万人とも7万人ともいわれる江差出身者が帰省し、祭りに命を燃やします。
祭りが終わった次の日には、人々はもう来年の祭りの日が早くくることを待ち望みます。祭りの数日後、祭りのホームページにはこう書かれています。「姥神大神宮渡御祭まで360日」。

■江差町民にとっての「姥神大神宮渡御祭」
その起源はおよそ360年前にもさかのぼる、蝦夷地最古の祭りの一つとして知られた「姥神大神宮渡御祭」。その年のニシン漁を終え、蝦夷地きっての景気にわきかえる夏の江差で、豊漁に感謝を込めてにぎにぎしく行われるお祭りでした。
江差では御輿に供奉する曳き山を「ヤマ」と呼び、屋台に高く青木(トドマツ)を立てて、神の依代とすることを「ヤマを立てる」と言い表します。宝暦年間(1751〜64年)に作られた神功山をはじめとする、武者人形、能楽人形、文楽人形、歌舞伎人形などを配した豪華な13台のヤマが、吹き流しや錦の御旗をひるがえし、流暢な祇園囃子の調べにのって、町内を練り歩くさまは、絢欄な絵巻の世界を眺めるよう。
はるか遠い江差のニシン景気を現代に伝える夏の大祭です。

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2007年02月23日

北海道遺産シリーズ

「昭和新山国際雪合戦大会」(壮瞥町)022.jpg
「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/
北海道において、雪のない冬の暮らしを考えることはできません。それは長く、苦難の歴史でもありました。そんな中でも、子供たちは学校への行き帰り、雪をかけ合い、雪球を投げあい戯れたものです。
無邪気な子供の遊びを、大人が真剣に競う冬のスポーツとして確立したことは、雪国・北海道にふさわしい新しい文化であると評価できます。
ルール・用具の開発から、資金集め、企画運営まで、地域住民が主体となって行う実行力、15年の大会の歴史の中で40カ国以上の人々が参加したという国際性は、次世代に引き継ぐ新しい宝物を生み出したモデルとして、各地に推奨できるでしょう。近い将来、北海道生まれのオリンピック種目に昇格するのではとの期待も大きくなってます。

■「雪合戦」活動開始の背景
「スポーツ雪合戦発祥の地」である壮瞥町は支笏洞爺国立公園内にあり、特別天然記念物の昭和新山、洞爺湖、有珠山を抱える道内屈指の観光地ですが、以前は冬季間は人もまばらで、12月から3月までの観光客の入り込みはほとんど皆無状態でした。「なんとか冬にも観光客に来ていただき、地域経済を活性化できないだろうか?」これが当町の大きな課題でした。
 
そこで、「地域活性化の核となる冬のイベントを創ろう!」と昭和62年8月、町内の若者グループが立ち上がり、アイディア検討会を結成しました。しかしたくさんのアイディアが出されたものの、どれも既存のイベントばかりで決定打となるものが見つかりませんでした。そんな中、ヒントを与えてくれたのは、旧正月に来遊する東南アジアからの旅行者たちでした。昭和新山にやってきた彼らは、生まれて初めて見る雪に感動し、その感触を確かめ、次にとる行動は、無邪気な子供のように雪をかけ合い、丸めて投げ合うことでした。その喜々とした姿をみて、「雪国に住む私たちは、雪の神秘さ、雪遊びの楽しさを忘れていたのだ」と気づき、新雪、利雪の観点から雪の価値を見出すことを考えたのです。
そしてアイディア検討会では昔誰もが遊んだ雪合戦の楽しさを現代風に再生させることを決定し、ここにスポーツ雪合戦が産声をあげたのでした。
 
しかし、競技は決まったものの、すぐに「雪合戦をどのようにスポーツとして作り上げていくか?」という壁にぶつかりました。そこで、既存のスポーツのルールを研究し、そこからヒントをもらいながら翌63年6月、ルール原案を作成。その後も研究を重ね、同年12月、ついに世界初のスポーツ雪合戦のルールが完成しました。 
またルール作りと並行して、用具の開発も進められました。頭や顔を防護するヘルメットは、スポーツ店兼靴屋の技術を活かし、オリジナルのものを開発。1試合に540個使用する雪球を1度に効率よく作るため、町内農家の人脈により、近隣町村の農機具メーカーが雪球製造器を開発、製作しました。型枠を組んで作るシェルター・シャトー(雪の壁)の作り方は、町内の大工さんが伝授してくれました。このように手探り状態のまま準備を続け、ついに平成元年2月、参加70チームを迎え、記念すべき第1回大会が開催されたのです。

「登別温泉地獄谷」(登別市)
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登別市は、わが国の風景を代表するに足りる傑出した自然の風景地として支笏洞爺国立公園に指定され、豊富な湯量と多種の泉質を誇る登別温泉と、山間の静かな国民保養温泉地であるカルルス温泉を中心に、地獄谷・大湯沼などの自然景観に加え、三つのテーマパークが立地するなど、北海道を代表する観光地として発展を続けてきました。
その中においても最大の泉源地「地獄谷」は、約1万年前笠山という活火山が噴火した時にできた爆裂火口跡です。この地獄谷や周辺から湧出する温泉は、温泉街のホテルや旅館に給油されています。地獄谷の周辺には様々な自然豊かな景観が残されており、後世に残すべき貴重な財産として、これからの自然環境の生い立ちや科学的な解説を通して、観光客や市民を対象にホスピタリティ豊かな地域住民がボランティア活動を行ってきます。

■地獄谷と周辺の自然景観
登別温泉地獄谷は、約1万年前の爆裂火口跡です。長径450m、面積約11ヘクタールの谷底には数多くの湧出口や噴気孔が点在するとともに、大地獄を中心に15の地獄があり、その凄さを物語っています。
ここから硫黄泉、明ばん泉、鉄泉など成分が異なる湯が毎分3,000リットルも湧き出しており、北海道を代表する温泉地最大の源泉として、温泉街のホテルや旅館に給油されています。
地獄谷の周辺には、太古から続く大自然の営みを今に伝える様々な自然スポットが残されています。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺産


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posted by 井上 昭三 at 17:45| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月20日

北海道遺産シリーズ

「スキーとニセコ連峰」(ニセコ地域)020.jpg
「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/
ニセコ連峰は、倶知安町側のニセコアンヌプリから日本海の岩内町側にある雷電岳(1,211m)に至る全長約25kmに及び、1,000m級の山々が連なります。積丹、小樽方面を含め、山と水の海岸の変化に富んだ景観から、ニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定されています。その主峰・ニセコアンヌプリには3ヶ所のスキー場があり、年間約70万人のスキーヤー・スノーボーダーが訪れます。中でも道内有数の規模を誇るニセコ・グランヒラフスキー場は全国屈指の人気スキー場で、アンヌプリ全体の年間スキー客の約7割を占めます。雄大な自然と上質のパウダースノーから、スキーヤー・スノーボーダーからは「スキーの聖地」と言われる憧れの地・ニセコ連峰。海外からも注目され始め、世界に発信する「ニセコ」へと生まれ変わろうとし

「北限のブナ林」(黒松内町)
021.jpg
渡島半島の付け根、日本海と太平洋を国内最短距離で結ぶ、黒松内低地帯を境に、南は鹿児島県から続くブナの森が、突然連続性を失います。
最終氷河期に一度北海道から姿を消し、その後、気候の温暖化とともに少しずつ北進してきたブナは、ここ黒松内町を自生北限の境としています。
気候による限界説、現在も北進中だとする説など、多くの研究者が北限の謎の答えを出そうと、諸説を唱えていますが未だにはっきりとしません。
ブナの森は研究者に多くの謎をかけながら、ただ静かに脈々と命をつなぎ続けています。
ただ、これだけははっきりしています。この森は多くの人を魅了して止みません。ブナの美しさに見入られた研究者や地元の住民が、戦中戦後二度の伐採の危機を阻止し、現在では町のシンボルとして多くの人々に親しまれています。
■ぶなの原生林を残留せるは奇蹟というべし
黒松内町では今でこそ山間にたたずむ農村ですが、まだ、日本列島の形が現在のように揃わない太古の昔、町の静かな海の底に眠っていました。北海道自体いくつかの島に分断し、それが気の遠くなるような長い歳月を経て一つの北海道となったとき、その繋ぎ目のひとつとしてできたのが黒松内低地帯だと言われています。
黒松内低地帯は渡島半島の付け根という地理的特性から、日本海と太平洋を最短距離で結ぶほか、春から夏にかけての南風が噴火湾で発生する濃霧を運び、冬は逆に日本海からの北風が大量の雪をもたらし、年間を通して比較的湿度の高い地域にあります。
そんなエリアにある「北限のブナ林」は、大きく3つあります。
手付かずの原生林「歌才ブナ林」、一度伐採され、自然の力で再生した「添別ブナ林」、恒久的な保存と学術的研究を目的とした北海道の保護林「白井川ブナ林」。
特に「歌才ブナ林」は北限という限界の地に厳正の姿のまま純林状態で自生していることが、学術的に評価され、昭和3年、国の天然記念物に指定されています。
しかし、時代に翻弄され、存続が危ぶまれる事件がおこりました。
太平洋戦争末期の昭和19年頃、木製戦闘機のプロペラ材として当時の日本軍がブナの伐採を計画したのです。さらに、昭和29年にも当時村の赤字穴埋めのために、天然記念物の指定を解除して払い下げをする運動を行うということがありました。しかし、学者や熱心な住民の運動で危うく難を逃れたというエピソードがあります。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺産 









posted by 井上 昭三 at 10:54| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月19日

北海道遺産シリーズ

「ニッカウヰスキー余市蒸留所」(余市町)
017.jpg
「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/
ニッカウヰスキー余市蒸留所は、創業者である竹鶴政孝の不断の努力と夫人リタの献身的な愛により、昭和9年にその前前身である大日本果汁株式会社として設立されて以来70年余、日本におけるウイスキー造りのパイオニアとして、余市町の発展とともにその歴史を刻んできました。
また、政孝の夫人リタの名にちなんで名づけられた、国道229号のJR余市駅〜余市町役場間約1.3kmの「リタロード」。ここには余市蒸留所を中心として、余市消防署や余市図書館、余市橋など公共建造物のほか、沿線住民の協力のもと、スコットランドのイメージを基調とした建物が多く並んでおり、住民と行政の協働による魅力あるまち並み景観づくりが進められています。

■ニッカウヰスキーの歴史と余市のつながり
日本でウイスキー造りを手がけた、ウイスキー造りのパイオニア、竹鶴政孝が余市を製造の拠点に決めたのは、余市の気候風土がウイスキーの本場英国スコットランドと大変似ていることが第一の理由でした。
また、余市はりんごの産地で、ウイスキーの原酒を寝かせて商品になるまでの期間、会社の経営を軌道に乗せるためには、りんごを使った商品作りが欠かせないものでありました。
昭和9年に工場建設にとりかかり、現在の旧事務所(余市町指定文化財)からのスタートとなりました。
設立当時の社名は「大日本果汁株式会社」で、まさにりんごを元に商品を作る会社であり、その傍らでウイスキーの原酒を製造していました。
昭和15年にウイスキーが商品となり、第1号ウイスキーの発売となる商品名は社名の「大日本」のニと「果汁」のカをとって「ニッカウヰスキー」として発売となりましたが、カタカナの名称は当時としては珍しいものでした。

■世界が認めた余市モルト
世界中に会員を有するウイスキー愛飲家の会員組織(ザ・スコッチ・モルト・ソサエティ)がニッカウヰスキーの余市モルトを会員頒布用のウイスキーとして、2002年に認定しました。
これまでに115の蒸留所を認定していましたが、ニッカウヰスキー(株)余市蒸留所は116番目、その認定基準が極めて厳しいことから、今までスコットランド以外で認定されたのはアイルランドの1蒸留所だけでした。また、2005年には、仙台宮城峡蒸留所も124番目の蒸留所として認定になりました。

「積丹半島と神威岬」(積丹半島)
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日本海の青白き怒濤に刻み込まれたダイナミックな海岸線。高い透明度から北海道唯一、海中公園の指定を受けるマリンブルーがどこまでも続き、半島の突端には、水平線が浮かび上がるように神威岩が屹立し、それらは正に神が創った造形美といえます。
また、積丹半島は、かつてニシン漁の旧大漁場として栄え、番屋や袋澗などが保存され、それらの遺構からは今も勇壮な「ソーラン節」が、心地よく潮騒にのり聞こえてくるようです。
風向明美な自然景観の保全と通年型観光振興の調和をテーマに周辺地区と連携した広域的な取組みから地域の活性化に向けた活動の広がりが期待されます。

■積丹半島の歴史と神威岬への思い
北海道の北西部に位置し、日本海に向けてこぶしのように突き出した積丹半島。はるかな水平線を切り立つようにそびえる断崖、険しい地形が海岸線を縁取り、周辺には数々の伝説を秘めた奇岩怪石があちらこちらに存在します。
これらは、はるか昔に起こった海底火山の影響により、海底から吹き出した溶岩が海水に触れ、その姿のまま冷え固められたものです。そしておよそ300万年前に半島全体が隆起し、その姿を地上へとさらすこととなりました。更に長い年月をかけて、日本海の打ち寄せる荒波や潮風により、侵食され、今のような姿が形づくられたもので、大地と海のエネルギーが激しくぶつかり合い、今日の海岸美が形成されました。
自然の力によってつくりだされたこれらの岩を、町民はそれぞれに思いを込めて見つめてきました。その中でも、古くから信仰の対象としてきた特別な岩、それが半島の中央に位置し雄大な神威岬から突き出た神威岩です。「神威(カムイ)」とはアイヌ語で「神」を表す言葉で、それは人知を超えた自然の猛威をもたらす「荒ぶる神」だと言われ、地元では「お神威様」と呼び、遥か昔より海の安全と大漁を祈願してきました。

「京極のふきだし湧水」(京極町)
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羊蹄山からの湧き水として最大であり、国内としても最大級のものです。北海道西部(日本海側)の多量の降雪がもたらす北海道ならではの恩恵の一つの形です。
水と触れ合う公園設備や、水を活用したさまざまな商品開発により、地域経済の活性化が実現しています。豊かな水は、北海道が誇る自然資源の代表的な存在であり、その象徴的な場所として、今後は、公園周辺における食品産業の集積や、水について学ぶことができる博物館の整備など、一歩進んだ活動が展開されることを期待します。
暑さが本格化すると、札幌やはるばる本州から訪れる人々が列をなすふきだし湧水。豊かな自然がじっくりと生んだおいしい水が、今日も多くの人々ののどを潤しています。

■京極町民にとってのふきだし湧水とは
そもそも、京極町のふきだし公園は、昭和初期に岩内町梅沢富士郎氏により町へ寄付されたものでした。
それと同時に京極龍門寺松田玄龍和尚が、「観音様の霊水」として、不動明王、三十三番観音像を設置しました。数ヶ所から流れる冷たい湧水は町民にとって憩いの場所、町のオアシスとなりました。
飲料水、下水道、工業用水などとして使用している湧水を京極町は「町の貴重な財産」と位置付け、良質な水資源を保全する環境整備を進めてきました。
そして昭和60年に京極のふきだし湧水が環境庁(当時)の「名水百選」に選ばれました。このことを受けて、町ではふきだし公園の整備を進めました。8年間で約7億円をかけて、遊歩道、吊り橋、駐車場、湧水の素晴らしさをPRする名水プラザ等、湧水の保全を図りながら、訪れる人々にとって使いやすい設備が整いました。
平成2年には名水百選に選ばれたことを記念して7月に第一回「しゃっこいまつり」が開催されました。町をあげて水に感謝し、そして、その水の恩恵を受けて、町を盛り上げていこうというこのイベントは現在まで毎年開催されています。また、同年ふきだし湧水は建設省の「生活を支える自然の水50選」に選定されました。
その後もふきだし湧水を活用したまちづくりは進展しました。
平成5年から平成10年にかけて、「スリーユーパーク整備事業」としてふきだし公園の近くに、キャンプ場やパークゴルフ場などが作られ、そして、京極温泉が建設されました。これらの設備ができたことによって、ふきだし湧水は水を汲みに来るだけではなく周りの施設との複合的な利用が可能となり、これらの施設には現在でもたくさんの人が訪れています。
平成8年には国土庁の「水の郷百選」に選定、平成10年には町外から訪れた人の数が100万人を突破しました。

-関連リンク-
「名水きょうごく」と「名水コーヒー」

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺産 
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posted by 井上 昭三 at 11:45| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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