2007年02月18日

北海道遺産シリーズ

「開拓使時代の洋風建築(時計台、豊平館、清華亭など)」(札幌市)
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「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/

札幌市の時計台や豊平館は、開拓使の事績を伝える歴史遺産であり、日本列島の北にあって、文明開化の時代の先端をいっていた北海道の特色をよく表しています。
時計台は札幌市のシンボルであるとともに、近年は2階ホールが、音楽会や講演会などさまざまイベントの場として親しまれており、豊平館も婚礼祝宴の場などとして、長年活用されています。
明治初期の洋風建築は全国各地に建てられていますが、北海道においては和洋折衷型も含め、旧永山武四郎邸、清華亭、旧黒岩家住宅、工業局庁舎、さらに札幌農学校の農場建築などが潰されています。

「札幌苗穂地区の工場・記念館群」(札幌市)
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札幌市の創生川以東は、明治期から「産業のまち」として栄え、今も福山醸造をはじめとした大小さまざまな工場や倉庫が下町的な雰囲気を残しています。れんがや札幌軟石造りの建築物も現役で稼動し、往時の面影をいまに伝えています。
また、苗穂駅近隣にある北海道鉄道技術館、サッポロビール博物館、雪印乳業史料館は、内容も充実し、北海道の産業史を知る上でも貴重な記念館群を形成しています。
さらに、苗穂地区では地元住民らによるまりづくり活動も活発に行われており、北海道遺産を活用した新たなまちづくりの動きも起こりつつあります。

「小樽みなとと防波堤」(小樽市)
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小樽港北防波堤は「港湾工学の父」と言われる広井勇氏により建設されました。独特の傾斜ブロック工法の採用による、日本初の長大堤防です。小樽みなとは北海道移住者の玄関口であるとともに、北の物流拠点、貿易港として、商業都市小樽の繁栄を支えました。今も現役で機能する北防波堤は、当時の記憶を今に伝える第1級の遺産です。
小樽市では小樽港を物流拠点としてだけではなく、市民や訪問者の交流拠点としても活用すべく、心地よい水辺空間の創出を進めています。さらに近年では小樽のみなとと防波堤について学び、その素晴らしさを訪れた人々に伝えようという観光ボランティアの活動も盛んになっています。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺産 
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2007年02月14日

北海道遺産シリーズ

「石狩川」(流域市町村)
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大雪山系を源とし、上川、空知、石狩の大平野を形成して日本海に注ぐ道内随一の大河川です。
北海道開拓の歴史の中で、度重なる洪水と闘いながら、舟運や運河が内陸への交通・物資輸送の道として多大な役割を担ってきたことや、鮭などの漁業や各種の用水利用など、石狩川は北海道発展の歴史や文化が刻み込まれている母なる川です。
今日において、安全で豊かなふれあいのある河川の実現を目指して、地域の意見を反映した川づくりのためにさまざまな取組みが行われています。


「江別のれんが」(江別市)
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明治24(1891)年、幌向村江別太(現在の東光町)で「江別太煉化石工場」の操業が、れんが生産の始まりとされています。平成18年で製造から115年の歴史を刻みつづけてきた道内のれんが生産地は江別だけで市町村別生産量は日本一。全国の生産の約4分の1を占め、れんがを現役で生産しつづけ、まちづくりに積極的に使用している貴重なまちです。
古いものを保存する一方で、後世に残すために新しいものを創り続ける息の長い取組みはまるでれんがを下から1個1個積み上げていくれんがが建造物の製造過程に似ています。「れんがのまち江別」のオンリーワンの個性は北海道遺産として構成に引き継がれていくものなのです。

「北海道大学 札幌農学校第2農場」
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「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/
模範家畜房および穀物庫は、札幌農学校開校の翌年に設計された北大でも最古の施設群であり、農業実施設であるとともに、日本農業近代化のモデルとしても構想されたものです。
明治末期に新設された牝牛舎などとともに、一式の農場施設を構成しています。農業機械群は、明治初期農場開設時の輸入機械をはじめ、近代農業史を語る貴重な資料となっています。
現在、北大では、北海道大学総合博物館を中心とした、市民に開かれたキャンパスづくりを推進しています。第2農場は、その一翼を担う場として、春と秋の年2回、市民へ公開されています。数年後の常設展示公開も現在検討中です。こうした試みは、大学と市民の新たな関わり方を提案するものとして、全道各地の大学に与える影響も大きいと期待されます。

■生い立ち
札幌農学校は、マサチューセッツ農科大学学長であったウイリアム・スミス・クラークを教頭として招き、明治9年8月14日に開校しました。開校早々にクラーク先生は実践的農業教育のために北海道開拓使の実験農場であった「札幌官園」を農学校のカレッジファームとして移管を受け、「第1農場」を学生の教育と研究用、「第2農場」を畜産経営の実践農場としました。すなわち、「札幌農学校第2農場」はクラーク博士の大農経営構想に基づいて、一戸の酪農家をイメージした畜舎と関連施設を擁する模範農場を目指して、開校から1ヵ月後の9月13日に発足したのです。そのため、その中心となっている最初に建てられた畜舎を現在でも「モデルバーン(模範家畜房)」と呼んでいます。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺産 
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2007年02月12日

我家の食卓のアイドル「きゅうりのキューちゃん」

今日は、うちの家族や孫達までも、以前からだあ〜い好きだった「きゅうりのキューちゃん」を紹介します。
 「きゅうりのキューちゃん」に初めて出会ったのはテレビのコマーシャルに坂本九さんが起用されていた頃だと思います。当時は現在ほど低塩ではありませんが、口にした時のあのパリットとした爽やかな噛み心地は、忘れること無く、今に進化しています。    新しい「きゅうりのキューちゃん」の素材へのこだわりも大変なもので、皮が薄く実のしまった歯切れの良いキューちゃんに最適な「四葉(スーヨー)」というきゅうり、苦みの少なく南国沖縄の太陽のエネルギーをいっぱい吸収したゴーヤと、すっきりした風味で辛みひかえめの「土佐一しょうが」を薬味に使用し、お口でふわっと広がる独特の香りと風味は、オリジナルの本醸造醤油とも合マッチして、絶妙の味わいになっています。また、不足しがちな食物繊維を3000mg(100gあたり)配合、ごはんに合うおいしい野菜ですexclamation×2
http://www.kyuchan.co.jp/kyuchan/blog/index.html
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ブログのネタ切れの時に利用してみるのも

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今日は何を書こうか悩むことはありませんか?
いいネタも、そうそう思いつかず、時間もあまり無い。そんな時に偶然「ブログのかんづめ」を見つけて会員登録しました。ブロカンから送られて来るメールには流行の情報とかけっこう魅力的な情報も多く読んでいるだけでも楽しく、その上ポイントも貯まっていくのですから、本当に楽しく情報発信できアクセスUPにもつながる、素敵なサービスです。
posted by 井上 昭三 at 13:03| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月08日

北海道遺産シリーズ

「土の博物館『土の館』」(上富良野町)

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「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/

「土の博物館 土の館」は平成4年7月1日に、世界的に類を見ない土壌モノリス展示のほか、世界のプラウと犂(スキ)、世界のトラクター展示、農耕の歴史などをテーマに開館しました。
大正15年の十勝岳噴火爆発によって発生した泥流のようすを示す4mもの「泥流地帯モノリス」や樽前山周辺(早来町)の「未開のモノリス」などが展示されており、原生林を切り拓いてやっと収穫できるようになった田園を泥流で失いながらも、その地にこだわち、客土によって耕作地を復活させた、北海道開拓民の農業に対する不屈の精神を見ることが出来る学習研修施設です。

「雨竜沼湿原」(雨竜町)

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雨竜沼湿原は暑寒別産地のほぼ中央に位置し、暑寒別岳、南暑寒別岳、恵岱別岳、群馬岳などに囲まれた標高850mの台地に形成された、およそ100haの面積を有する山岳型高層湿原帯です。
山地湿原としては、尾瀬に次いでスケールが大きい上、ほぼ真円の池塘(ちとうと呼ぶ湿原の沼)が大小100あまり点在し、しかもそれらの地塘が棚田のように高低差をもって並んでいて景観の変化が大きいというユニークな特徴があります。また、雨竜沼湿原は四季それぞれに魅力的ですが、登山シーズンの6月下旬から8月にかけて様々な花が咲き乱れる植物の宝庫であり、これまでに120種以上の湿原植物が報告されています。これらの植物によって構成される群落は37群落に達し、湿原の種並びに多様性は国内的に極めて希少であり、学術的にも高い評価を受けています。

「北海幹線用水路」(空知地域)

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北海幹線用水路は、空知平野の水田を潤す用水路で、農業専門の用水路としては日本で最も長いもので、空知北部の赤平市から砂川市、奈井江町、美唄市、三笠市、岩見沢市、北村、栗沢町、南幌町と北から南へ約80kmに及び、受益面積は約26,000haに達しています。ルートは夕張山地の西側の丘陵下部に沿って南下しており、途中いくつかの河川や道路・鉄道を横断するために水路橋やサイフォンおよびトンネルなどの工法が採られています。
幹線用地は用水路幅4〜16mを含め幅が最大で54mあり、この土地を利用した景観づくりが各地で進んでいます。また、市街地や住宅地を通ることもあり、迂回の必要や危険も伴うことから、この用水路にふたをして上を公園にしたり、親水広場にするなどの工夫も凝らせています。また、同じ景観づくりでも地域の子供たちや住民の参加を受けた植栽や植樹の活動も行われています。

「空知の炭鉱関連施設と生活文化」(空知地域)

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空知地域は、国内最大規模の産炭地として、最盛期に100炭鉱・83万人の人口を擁し、日本の近代化と経済成長を支えました。近年、同地域の産炭地自治体は「そらち・炭鉱(やま)の記憶推進事業」、「そらち・炭鉱(やま)のまちからの挑戦事業」などの、当時の繁栄を現在に伝える事物・記録を活用した地域づくりに広域的に取り組んできました。
その結果、炭鉱遺産を活用した地域づくりを推進する母体となる新たな地域づくり団体が各地に設立され、着実な活動を進めてきました。そういった地域の情熱が評価され、2003年9月には国際鉱山ヒストリー会議が赤平市で開催され、海外からの専門家も多数出席する中、地元赤平市や地域づくり団体のネットワークの協力のもとで、成功をおさめました。

■日本の近代化を支えたエネルギー「石炭」
日本の石炭産業は、明治以来、開発が進められ、本道の基幹産業として発展し、最盛期には158炭鉱が操業していました。国内エネルギーの供給基地としてわが国の経済発展に寄与し、地域の特徴ある生活・文化の形成を促し、地域の発展を担ってきました。
しかし、昭和30年代に入り、エネルギー革命による石炭需要の低迷から、石炭工業が斜陽化を迎えて閉山が相次ぎ、空知管内では平成7年の空知炭鉱(歌志内市)を最後に、坑内掘り炭鉱はすべて姿を消しました。多くの炭鉱の閉山は、炭鉱を基幹産業として発展してきた地域の人口流失や失業者を増大させ、繁栄のシンボルでもあった炭鉱関連施設は荒廃が進むなど、急速な地域社会の衰退を招きました。
その後も閉山の深刻な影響から脱却できず、マイナスの地域イメージや地域アイデンティティの喪失など、経済的・社会的に多くの深刻な課題を抱え、地域の将来のビジョンが描きにくい状況にありました。

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2007年02月05日

北海道遺産シリーズ

「旭橋」(旭川市)

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「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/

旭橋は、買物公園や旭山動物園とともに、旭川をイメージする代表的な市民の財産であり、各種ポスターやパンフレットの表紙等でも数多く活用され、長い間にわたって、市民や地域で親しまれてきました。
その独特のアーチ状の外観は、本市の中心市街地にあって、大雪山や石狩川などの自然と調和して美しい景観を創り出し、平成9年には市民応募などをもとに設けられた「旭川八景」の一つに選ばれています。
また、市政開基100年の記念事業として、旭橋を中心とする石狩川エリアにリベライン旭川パークも整備されており、今後も市民の心に残る貴重な財産として、また各種イベントのシンボルとして活用、展開が期待されています。

■「鷹栖橋」から初代「旭橋」へ
現在旭橋がある地点に、初めて木製の「鷹栖橋」が架けられたのは明治27年のことでした。
しかし「鷹栖橋」は明治31年の洪水で全壊。橋の改築が進められることになり、明治37年、北海道では2番目となる鋼道路橋が完成しました。旭川の市街地にあるのだから名前も変更すべきという意見により、名前は現在の「旭橋」に決定しました。


■優れた技術を追求して誕生した旭橋
しかし、初代「旭橋も」昭和の初めには老朽化が進み、揺れがはげしくなりました。一般交通上、軍事上の観点から架け替えが求められるようになり、また地元の強い要望もあったため、再び改築が決定しました。
新しい橋の設計指導を担当したのは当時北海道大学工学部長だった吉町太郎一博士でした。吉町博士は「旭川のシンボルになるような橋を」と考え、美しいアーチ構造をもつ現在の旭橋のデザインが決められました。
昭和4年11月から始まった工事ではアーチ構造を実現するために様々な工夫や技術が用いられました。
そのひとつが、荷重対策として特殊な鋼材を使用したことです。アーチ橋では、橋に重さが加わることによって、下へたわむと同時に外側に広がろうとします。この力に耐えるために旭橋の一部の部材には遠くドイツから輸入した銅とクロムを含む鋼が使われました。
また、温度変化によって起こる橋の伸び縮み対策や、軽量化を図ると同時に強度も確保する知恵などを施し、昭和7年11月に現在の旭橋が完成しました。


■多くの人々に愛される橋へ
旭橋の特徴は、なんといってもデザインの美しさです。
大雪山連峰をバックに映えるアーチ橋の雄姿は、札幌市の先代豊平橋、釧路市の先代幣舞橋と並んで「北海道三大名橋」とされています。
もうひとつの特徴は、構造物としての丈夫さです。ほかの名橋が架け替えられた中、旭橋は完成当時と変わらない姿を保っています。
また、ランタン型照明灯の復元や、塗り替えの際には市民アンケートで色を選ぶなど、その維持管理には市民の声が生かされています。


提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺産







 
posted by 井上 昭三 at 14:50| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月04日

北海道遺産シリーズ

留萌のニシン街道
(佐賀番屋、旧花田家番屋、岡田家と生活文化)」(留萌地域)

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「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/

番屋に象徴されるニシン漁は、北海道独自の漁法を伝え、松前藩の時代から、北上するニシンを追って北海道の西海岸一帯をニシンの千石場所に変える中で、地域にさまざまな物語を残しました。道民にとってもニシンは「春告魚」であり、忽然と姿を消した今でも記憶に刻まれています。
1999年春、留萌沿岸は45年ぶりにニシンの郡来(くき)を見て以来、少しずつニシンが回帰しています。番屋をはじめ、ニシン漁の賑わいを伝える資料が多いことからも「ニシン街道」として広域活動を行う要素に恵まれています。街道ツアー、ニシンにちなんだ祭り、ニシン創作料理など、「ニシン」にこだわったまちづくりが進められています。

■ニシンとともに歩んできた留萌地方

留萌市は北海道の中でも古い歴史を有しており、1596〜1614年には松前藩によるアイヌの人たちとの交易の場所として、「ルルモッペ場所」が開設されたのが始まりといわれています。
その後留萌はニシンとともに繁栄し、「ニシンといえば留萌」と称されるほどに名を馳せました。
「佐賀番屋」は、往時の施設、ニシン船、漁具とともに、生活用品等がそっくりそのまま残されており、今すぐにでもニシン漁を行うことができるほどと言われています。「佐賀番屋」はまさしくニシン漁撈史のシンボルとも言えるのです。

■現在の留萌地方にとってのニシンの存在
昭和29年を境に、留萌でも群来(くき・・・ニシンが産卵のため大群で岸に押し寄せること)は見られなくなり、昭和32年を最後に留萌のニシン漁が終焉を迎えることになりました。
しかし、現在でもニシンにかける「夢」を捨てきれず、春が近づいてくるとニシンの刺し網を仕掛ける漁師たちがいます。そして、ニシンを呼び戻すための稚魚の放流も行われています。こんな願いが通じたのか、平成11年の春には45年ぶりに留萌の前浜で群来が見られ、産卵のため白く濁った海面に、留萌市民は沸きあがりました。
ニシンの卵の加工品である留萌の「塩かずのこ」は全国一の生産高を誇っています。留萌は今でもニシンのまちなのです。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 

◆その他の写真◆

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2007年02月03日

北海道遺産シリーズ

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天塩川は、北見山地の天塩岳を源とし、剣淵川、名寄川、問寒別川などの支流を集め日本海に注ぐ、北海道第二の大河川です。流域の上流部は高山植物の豊富な天塩岳道立自然公園、下流部は北海道最北端の湿原、サロベツ湿原の広がる利尻礼文サロベツ国立公園に指定され、緑豊かな自然と、動植物がみられます。
また、河口までの157kmを一気に下ることができる、日本有数のカヌー適地として多くの愛好家が訪れ、カヌーツーリングを楽しんでいます。流域12市町村とその住民により、官民一体となった地域づくり、情報の共有化、河川環境保全等の幅広い取組みが進められています。
「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/

■天塩川を舞台にした活動
天塩川流域は12の自治体に分かれており、当然、環境や文化、取組み等には若干の違いがあります。しかし、天塩川に対する思いや考えは昔から変わっていません。
各流域市町村には独自に天塩川と関連づけたまちづくりや取組みがあり、また、広域的に取り組んでいる事例もあります。広域的な取組み事例として、平成14年度から始まった「天塩川クリーンアップ大作戦」は、7月の河川愛護月間に行われるイベントで、天塩川の美しい流れを次代に生きる子供たちに引き継ぐため、流域12市町村やNPO法人天塩川リバーネット21、関係諸団体が一体となって、天塩川や河川敷の清掃に取り組むものです。
また、平成16年6月には、天塩川左岸名寄大橋上流河川敷において「天塩川水防公開演習」が、上川北部9市町村と北海道、北海道開発局が主体となり、約3700名の参加者で実施されました。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺産

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2007年02月02日

北海道遺産シリーズ

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「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/

宗谷丘陵に見られるなだらかな地形は、約2万年前の最終氷河の間に形成された氷河由来の特徴的なもので、氷河周辺部での凍結融解の繰り返しによってできたものです。
谷が樹枝状にのびる地形は、上空からよく観察されますし、丘陵上の道路を通ると緩やかな起伏を感じることができます。明治44年5月に発生した山火事で森林が失われて、その後は多くの笹に覆われていますが、谷沿いにはようやく森林が回復しつつあるのが見られます。
日本最北端のこの丘陵には、国内最大規模を誇る広大な肉牛牧場があり、厳しくも豊かな自然に育まれた健康な「宗谷黒牛」が約2600頭放牧されています。

■偶然が造り出した美しい地形
日本最北端の地、宗谷岬の背後に広がる丘陵は、高さ20〜30mから、せいぜい200mで、稜線も谷も丸みを帯びています。
V字型の鋭い稜線や谷を見慣れた人の目には、これらの丘陵は日本離れした光景として映るようです。
稚内の内陸部を特徴付けるこれらの丘陵は、周氷河期地形と呼ばれます。石の割れ目に入る小さな雨粒でも、凍結と融解を繰り返しているうちに、岩を割ることができます。また、地表が凍結・融解を繰り返していくと、流土現象といって土壌内で対流が起き、稜線の角が崩れ落ちて丸みを帯びるだけではなく、地表部全体にわたって流土現象などが一斉に動くので険しい山地も、平坦でなだらかな周氷河性の波状地になってしまうのです。この波状の丘陵ができたのは、氷河時代の末期といわれています。

■自然と風土を生かす
丘陵内には手付かずの自然が残る広大な土地を牧草地として活用し、「宗谷黒牛」を生産する宗谷岬肉牛牧場があります。冷涼な気候風土の中、2600頭の肉牛を飼育しています。
生産理念として、大地の健康、牛の健康、消費者の健康を大切にした肉牛生産を掲げ、自然環境保全の重要性を認識し、牧草地の無化学肥料化など、環境負荷の少ない資源環境型肉牛生産を推進しており、ここで生産する宗谷黒牛は、国内農畜産物産地に対する認証制度である「全農安心システム」の第1号認証産品です。
また、風力などの地域自然エネルギーや漁業副産物の飼料化など地域資源の有効活用に積極的に取り組んでおり、北海道遺産に認定された周氷河期を生かし、自然と共生できる経営を目指しています。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺産 

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2007年02月01日

北海道遺産シリーズ

「稚内港北防波堤ドーム」(稚内市)

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「写真提供サイト」http://nature.aru.co.jp/

樺太航路が開設されていた稚内港における冬季の北西波防止のために昭和11年に建設された、半アーチ式ドームです。海上からの高さ14m、柱間6mの円柱70本を並べた、長さ427mの世界でも類を見ない、独特の景観と構造をもちます。
設計者は土谷実氏。設計を命じられた当時、北大工学部を卒業して間もない26歳の土木技師でした。
若い土谷の北の荒波への挑戦は、港湾土木史に残る傑作を生み出すこととなったのでした。
最北端の厳しい自然条件に耐えてきましたが、しだいにコンクリートが古くなり危険な状態になったので、一度取り壊し、昭和56年に原型通りに再現したドームが建設されました。

■地域にとっての北防波堤ドームとは
ロシア連邦サハリン州は稚内市から43kmの至近に位置しており、稚内港では大正12年5月に鉄道省により、樺太大泊(現サハリン州コルサコフ)への稚泊航路が開設されました。翌年には本斗(現ネベリクス)への連絡船が就航し、昭和9年には利礼航路が定期化されるなど、交通の要衝として目ざましく発展してきました。樺太航路は昭和20年に廃止されるまで22年間で約284万人もの乗客を運んだのです。

稚内市は、日本海とオホーツク海がぶつかり、四季を通じて強風が吹く波高い場所として知られていますが、高波は当時かろうじて完成された5.5mの防波堤も易々と越えて岸壁にいる乗客を襲い、時には海に転落するという事故もあったことから、波よけが必要となり、昭和6年〜11年までの5年間の歳月をかけて、この北防波堤が作られました。

提供 文章:「北海道遺産とまちづくり」より 写真:北海道遺産 







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